はがゆさ解消シリーズ 音楽篇 1989、1990年? | 妄想印象派 自作のイラストや漫画、アニメ、音楽など

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私がここに書く内容は、

極めて独断と偏見に満ちているので、

ここの文章をお読みになる方は、

まず前もってその事を念頭に入れておいて下さい。

ここに書いている内容は、

別に人に押し付けるつもりはないです。

 

 

 

私は、メジャーなクラシック音楽を聴いていて、ふと、

 

「ここのオーケストレーション処理ヘタクソじゃね?」

 

と思う事が、今まで何度かあった。

 

最初はよく分からなかったが、

後で、「ああ、恐らくこういった理由なんだな。」と気付いたりした。

でも何故か、その事を誰も指摘しない。

そう思っているのは、私だけの様だ。

まあ、人それぞれ感覚は違うからしょうがないのだとは思う。

 

でも私は、美術家の末席を汚す者として、

その「気に入らない部分」を、

自分で納得行く様に改変したくてウズウズしてしょうがなかった。

共感を得られるかどうかは分からない。

得られれば得られるで嬉しいが、得られなくても、

自分で納得でき、その事で、心のつっかえが取れる訳だから、

一種の「心のケア」みたいな「芸術療法」みたいなものである。

 

「歯痒さ解消シリーズ」とは、この様にして誕生した。

 

因みに、当Blogのタイトルにもなっている

「妄想印象派シリーズ」(1994年)

と内容は似ているものの、微妙に違う。

「妄想印象派」は、或る物事に対して

「自分はこう思う、こう感じる」

というものを描いたり作ったりするシリーズだが、

「歯痒さ解消」は、「絶対こうした方がいいと思う」という感じで、

多少強引さがある。

勿論、人に押し付けるつもりは全くない。

 

 

 

○歯痒さ解消第1番

(1989、1990年?~1997年)

メンデルスゾーン

交響曲第3番「スコットランド」

そこで、1996年に作曲ソフト

Hello! Music! 2.0、ハードはMacintosh Performa 6310

を買ったという事で、取り敢えずは、

メンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」

Mendelssohn Sinfonie Nr.3 a-Moll "Schottische" op.56 (1842完成)

を俎上に載せる事にした。

 

この曲の何が問題かというと、表現の幅の広さに、

オーケストラの楽器編成がついてこれていない事だ。

トゥッティ(全奏)のフォルティッシモ(とても強く)部分の迫力が、

空回りしている感がある。

 

最初にこの曲に出会った頃(1989年頃)は

何が原因なのかよく分からなかったが、何年か経って、

トロンボーンが編成に組み入れられていない事がわかり、

恐らくそれが原因ではないかと思ったのだ。

 

そんな訳で、1997年に、作曲ソフトに同曲を打ち込み、それに、

自分なりにトロンボーンとチューバを勝手に加えたものを作った。

当時は、集中力が続かずすぐバテる体質であったため、

一番空回りが酷いと感じた、

第4楽章のクライマックス部分(452~490小節)のみを取り上げた。

453小節と455小節が、特に酷すぎる!!

この曲は、その他の実験的に作った曲と共にカセット録音し、

200円程の値段で販売した(殆ど売れなかったが)。

 

この曲のオーケストレーションを問題にしているのは、

世界でも私だけだと思われる。

誉める言葉は多く目にすれど、批判は全く聞かない。

よく、シューマンショパンのオーケストレーションの問題点を

指摘する言葉は目にする。

 

前者は、何だか輪郭がぼやけてフワフワした感じがするという批判

(逆に、それがシューマンの《個性》だと擁護する言葉もある)で、

私も同じ事を考えていたが、後者に関しては、

何処が問題なのかよく分からない。

 

ショパンのピアノ協奏曲第1番の楽譜を見たけど、

音符が複雑に書き込まれて、逆に「さすが!!」と思ったんだけど・・・。

どういった所が問題なのか、誰かきちんとした説明をして欲しい。

 

因みに、ショパンと同郷の作曲家兼ピアニストの

カロル・タウスィク(カール・タウズィヒ)

Carl Tausig (1841-1871)

が、ショパンのピアノ協奏曲第1番を編曲している。

 

しかしだからといって、強奏(激しい表現など)には

必ずトロンボーン等の低音金管を用いなければならないかというと、

そうでもなく、例えばブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番

サラサーテのツィゴイナーヴァイゼンなんかは、

トロンボーンが組み入れられていないものの、

オーケストレーションの違和感を感じない。

入れた方がよりいいなとは思っているが。

 

という事はつまり、トロンボーンが入っているかどうかは

余り問題ではない気がする。

強奏のオーケストレーション処理に問題があると、どうしても感じる。

 

念の為言っておくが、強奏以外は、全く問題無く美しいと思う。

 

 

 

○歯痒さ解消第2番(1990年?、未完)

ブラームス「悲劇的序曲」

私は、ブラームスが余り好きではない。

というより、ブラームスに対して、世間は評価しすぎではないかと思う。

ミーハーっぽさ、ネームバリューなものを感じる。

 

交響曲第1番 Brahms Sinfonie Nr.1 c-Moll op.68 (1876完成)

は、記念碑的であるという意味では重要だと思うが、

曲そのものはどうなのか?

或る種の「ショボさ」を感じないか?

作曲に20年も掛かったという気負いを感じる、

何だか聴いていて気が重くなる雰囲気や、

クライマックスのハッピーエンド「予定調和」振り(取って付けた感バリバリ)。

一番分からないのは、

ヴァイオリン協奏曲 Violinkonzert D-Dur op.77 (1878)

に対する評価の高さ。

凄い退屈感を感じる。何がいいのかさっぱり分からない。

ベートーヴェンメンデルスゾーンのと共に

「3大ヴァイオリン協奏曲」と呼ばれているが、

一体何を持ってして、どういう基準でそうなったのか?

 

別に私は、超絶技巧のコンチェルトがいいという基準を持っている訳ではない。

メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲は好きだ

(トロンボーンを使っていないため、

強奏部の迫力がちょっと空回っている感があるが)。

 

ブラームスの交響曲第3、4番も好きだ。

つまり、私が嫌いなのは、「聴いていて退屈な曲」

「何度聴いても憶えられない様な印象深くないフレーズの曲」

なのである。

その意味では、ブラームスの交響曲第2番も嫌いである。

勿論、その嫌いな曲の条件に、

「強奏の迫力が空回っている曲」も加わる。

 

ここで取り上げた

悲劇的序曲 Tragische Ouvertuere d-Moll op.81 (1880初演)

は、或る種の「実験」というか、「確信犯」的なものを感じた。

オーケストレーションが妙にヘタクソに感じたのだが、

楽譜を見てみると、わざとではないかと思った。

 

私の手許に、この曲の楽譜がある。

編成にポザウネ(トロンボーン)と

チューバが組み込まれているのだが、

わざとそれらを活かさない様にしている。

やたらと弱奏の部分ばかりに用い、

強奏には敢えて殆ど用いない様にしている

(395~398小節は例外)。

最後の締めでは、クライネフレテ(ピッコロ)とトロンボーン、

チューバが除け者にされている。

一般的にはそういう事はまず有り得ない。

 

これは、恐らくだが、やたらと華やかさを求める、

ヴァーグナーリストらに代表される「新ロマン主義」に対する

アンチテーゼの表明なのかも知れない。

だから、わざとトロンボーンを使わなかったり

活かすような事を余りしなかったのかも知れない。

 

トロンボーンは、ロマン派の時代になってから、

管弦楽曲に一般的に使用される様になったのである

(その辺りは後で詳述します)。

それを意識したのかも知れない。

 

因みに、ハンガリー舞曲のオーケストレーションは、

ブラームスも含めて何人かの人によってなされているのだが、

ブラームスによる編曲だけは、

トロンボーンが編成に組み込まれていない。

私が、「確信犯」ではないかと疑った理由も分かるでしょ?

 

未だ手を付けていないのだが、

納得の行く様に改変してやろうと思っている。

 

彼の木管の扱いも、「何だかショボさを感じるなあ」と思っている。

彼独特の「音色」なんだと言われればそれまでだが。

 

 

 

○歯痒さ解消第3番(?年、未完)

ベートーヴェン交響曲第9番「合唱付き」

名曲中の名曲であるといわれているこの曲、批判的な声は、

毎年暮れに演奏される社会現象を揶揄する辛口批評を

なんかの本で見た位で、概ね高く評価されているものと思う。

 

が、私が問題にしているのは、

やはり、オーケストレーションである。

はっきり言って、稚拙な雰囲気が漂っている。

 

もし仮に、現在活躍している作曲家が

こういったオーケストレーションの曲を作曲したら、

皆どう思うだろうか?

「ふざけるな!!」と思うのではないだろうか?

内容にもよるが、トゥッティ(全奏)の強奏の部分には、

基本的にはトロンボーンが必要ではないだろうか?

それがないと、コクのある迫力が出ないので、

妙に空回りしてる感じがするのだ。

特に、第1楽章の冒頭の、

落雷を描写した様なフレーズ(16~19小節辺り)が、

酷くヘタクソに感じる。

それに添えられたトランペットの音がまた、

空回り感を更に引き立たせている。

いつ聴いても不快感を感じる。

 

オクターヴで重ねて、

チープ感否めない打楽器的に扱われているトランペットを

ティンパニと共に添えるより、

トロンボーンを加えた和音の伴奏を付けた方がいいと思う。

私は脳内で、そういう編曲版を演奏してみた。

それを、実際に音にしようと思っている。

不思議な事に、この曲には、

トロンボーンが編成に組み込まれているのだ。

どうして使用すべき場所で使わないのか?

 

この曲の編曲も、未だ手を付けていない。

 

別にベートーヴェンは、

オーケストレーションに不慣れだった訳ではない筈だ。

耳が聴こえなかったというのもそんなに問題では無かったはずだ。

 

実際、「第9」とほぼ同時期に書かれた大作

「ミサ・ソレムニス」 Missa solemnis op.123 (1823)

は、オーケストレーションが極めて優れている。

 

基本的に古典派の時代は、

宗教曲や一部のオペラ(モーツァルトの『魔笛』など)にしか

トロンボーンが使用されていなかった。

 

私の知る限り、交響曲に初めてトロンボーンが使用されたのは、

ベートーヴェンの「第5番」であったと思う。

当時としてはそれは革命的だったので、ベートーヴェン自身も、

そんなに交響曲にトロンボーンを多用しなかったのだと

私は勝手に妄想している。

時あたかも、

音楽潮流が古典派からロマン派に移行しようという過渡期である。

 

そのロマン派音楽への橋渡し的存在が、

当時としては前衛作曲家だったベートーヴェンであった。

ベートーヴェンの交響曲でトロンボーンが使用されているのは

「第5、6、9番」であるが、

私は「第7番」にも組み入れるべきだったと思っている。

 

躍動感や激しい描写が多い為、

トロンボーンが編成に組み入れられていない事で、

迫力の空回り振りを著しく感じる。

「無理矢理感」を感じるのだ。

古典派時代の交響曲の楽器編成では、器が小さすぎるのだ。

でも、前述の通り、

交響曲にトロンボーンを加えるのが珍しい時代だったので、

それが編成に組み入れられなかったのはしょうがないと思う。

 

 

 

追伸

多分、この文章を読んだ方の中には、

怒りに震えておられる方もいるかも知れない。

かなり勇気のいる論文でした。

でも、あくまで個人的な意見、感想に過ぎません。

 

私の好きなマイナー作曲家の曲を余り良く評価していない文章を、

Web上に発見したりもしていますが、

それはその人の好みによる感想ですので、

別にいいんじゃないかと思っています。

 

そんな訳で、あくまで私の好みによる音楽評を書いた訳です。

共感をしてくれる方も居れば、反感を抱く方もおられる事でしょう。

あとは、作曲ソフトで私が納得する内容に編曲したものを、

ネット上に配信する為に、その手続きを取るだけです。

いつ実現するかは分かりませんが、

余り期待せずに気長に待っていて下さい。

 

【追記:2021/6/11】

文章整理(内容ほぼ変えず)