本を読む 教養を身につける | LEO幸福人生のすすめ

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幸福の科学一信者のブログです。
幸福の科学での学びを中心として、
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私は、総合大学の理数系に進んだんだけれども、周囲には、本をたくさん読むという人はいなかった。

 

理系だから余計、理数は得意だが、人文系は不得意なのか、文学の愛好者とか、その手のタイプは私の交友範囲ではいなかった。

 

就職してからも、理系出身の同期が20人くらいいたけれども、やはり読書家というほどの人はいなかった。

 

海外SFのファンが二人いたので、SFのことは話したけれども、本なんか一冊も読まない、というのもいたし、村上春樹の流行りの本を一冊読んだ、という人がいたくらいで、一般教養としての古典名著を読破している人などはいなかった。

 

わたし自身も、その時点ではまだ読破なんて出来ていなかったけれども、20代のうちに結構な数の古典名著を、努力して読んだ覚えがある。

 

それは、幸福の科学の信者になっていたから、というのもあるけれど、自分自身にそれなりの勉強衝動があったからでもある、とは思っている。

 

明治大正時代の大学生は、学生時代に古今東西の古典名著をいそしんで読んだ、という。教養主義の時代だったし、学生時代にそうした基礎教養を勉強しておかなければ、やるべき時はなかなか持てないから、でもあったろう。

 

これは私の印象だが、大卒、かならずしも人間的には賢くない。大学なんか出ていなくたって、賢い人はいくらでもいる。わたしが見てきた賢い人は、むしろそちらのタイプが多かったように思う。

 

それは人間としての学びが出来ているか、どいうことであって、学歴は関係ないからである。

 

読書の習慣といえば、地獄和尚は100万部では物足りない、と言っていた。

 

1億2000万人いる日本において、100万部売れたからといって、それはわずか100人に1人も読んでいない数に過ぎない。残りの99人はどうしているのか。ミリオンセラー本にして斯くの如しである。

 

教養主義の時代を、現代は受け継ぐべきだったと思う。これが失われたのも、先の戦争の敗戦きっかけだったという。

 

せめて個人にても、教養を積もうと思う。そしてその学びを活かせたら、と思うのだ。