ブライアン・ワイス博士の 『未来世療法』に出てくる文章。とてもとても大事なことを言っているのだと思います。
黙想は、沈黙の中で一人静かに考える、深く考える作業ですが、瞑想は 『考える』という作業とは 基本姿勢が違っている。
考える、という作業は、西洋文明で重視される、思考の大切さ、これは左脳に寄った思考という意味でもあるかと思いますが、瞑想というのは、そうした分析的思考では得られない世界への参入を語っているものですからね。
思考は、自分自身というものに立脚して、自分はどう思うか、ということを黙想することに近いと言えるが、自分にこだわり過ぎていたら、他者をも含んだ広い視点、公正な視野に立った深い思考内容というのは、獲得することが出来ないでしょう。
分別心、自分と他を分かって、しかも自分にばかり偏って考える思考では、自分勝手で自己中心の思考に陥りかねないので、単に勉強をよくすればいいもの、というわけではない。自分を深く磨きながらも、その自分、自我意識、自我我欲、自己中心の心を去る修行も、同時に並行して行っていかなければ、深い精神修養は出来ないもの、なのだと私は思います。
自分を空しくして、自我にもとづいた思考から離れる、そうしたオープンな心の状態を目指して、そうして深い魂体験を求めること。
そういう心掛けを持たずに、単に左脳的思考、分別思考ばかりに偏っていると、これはあくまでも自分の自我に偏った、自分中心主義から離れたものではないので、どんなに偉大な思想や考えに出逢っても、すぐに、
自分はこう思う、自分はこの考えに賛同する、あるいは自分は賛同しない、反対だ、この考え方には納得しない、違うと思う、などといって、自己都合の取捨選択にすぐに走ってしまい、
しかしてそれは、自分勝手な好き嫌いに過ぎなくて、自分には無い優れた思想を却下してしまう、視野の狭い捉え方なんですよね。
自分はオールマイティーに、パーフェクトな視点を獲得しているわけではないので、自分の「いま現在の」考えばかりにこだわり過ぎてしまっては、自分に欠いている優れた他者視点を見逃す危険性がありますからね。
いまの自分の考えに都合がいい、合っている、そういうものには共感するが、
いまの自分の考えとは対立する、都合が悪い、そういうものは否定する。
こういう姿勢では駄目でしょう。そういう学び方というのは、いま現在の自分を肯定せんがための、自我肯定の勉強にしかなっていないので、なんの成長にもなっていない。単なる自分の好き嫌いの増長にしか過ぎないので、そういう勉強の仕方に留まっては意味がない。
自分以外の人たちにも、優れた考えはあり、経験はあり、そうした人たちから学ぶことは数多い。吉川英治さんが言った、我分以外みな我が師、という言葉は、他の人から学ぶことあり、という大切なことを教えている言葉だと思います。
そうして、こうした視野の広さをもって、世界を見直す、この宇宙の真の姿を実感すべく、魂の旅立ちを経験する、そうしたことを目指すのが、瞑想の本義なのだと、わたしは想うものですが、
ふだんの思考や、知的な解釈に走りがちな自分を抑えて、心を沈めていって解放する、という魂の状態を目指すこと。
こういうことを言うと、それは思考の放棄であり、誰かの言いなりになる洗脳教育だ、などと言ってくる愚かな人間も出てくる可能性がありますが、そうじゃありませんからね。
わたしは、思考を否定しているわけじゃないし、左脳の働きは要らない、などということは一言も言っていないので、ものごとは全体をよく読んで理解しないといけないんですよ。
わたし自身どうかといったら、理知の働きの方がずっと強いタイプだし、瞑想を究めたわけでもないのだけれど、理知や左脳の大切さは知りながらも、それだけでは見逃していることがある、まだまだわかっていないことがある、ということを、この論では述べているだけなので。
本を読む際にも、自分中心の立場で、これは良い、これは自分には合わない、という取捨選択にすぐに走る読み方は、まさに自我にもとづいた学び方で、こういう読み方をしてしまうと、いまの自分に欠けている問題点を、修正するための教えに合っても、素直には読まず、逃げて、見て見ぬふりをする、あるいは否定して平然としている、という読み方になりかねないでしょう。
素直さや従順さ、敬虔さを欠いた自我勉強に陥っていると、そうなる。
自分では、他の人の考えも尊重し、肯定しているつもりでいても、実はそうではなくて、あくまでも自己中心に過ぎなくて、見せかけの公正さのふりをしているだけであって、いろんな人への配慮を欠いた、共感性を欠いた、自己中心の読み方しか出来ていない人もいることでしょう。
他の人の、素晴らしい考えや生き方に、共感的に、それを賛美する豊かな心を持っていて、そういう広い視野に立って、自分は物事を考えているだろうか。
人の生き方・考え方を述べた人生論の本を読む際に、いまの自分に偏った読み方をしていないだろうか。自分の好き嫌いで取捨選択しているのではないだろうか。
自分の足らざるを自覚して、その面において、自分より善い考え方を採用して生きている人たち、多くの人たちの生き方に学ぶ、という姿勢を有しているだろうか。
さまざまに思考する際にも、そういった広い視野で、自分という小さな自我を超越した立場で、学ぶ姿勢を有しているだろうか。
歴史ものを読む場合にも、この自分という魂の個性に偏った、自分好みの視点で読んでいるだけでは、広い視野を持った読み方にはなりませんからね。
左翼思想に偏った人の読み方、というのはそうであるし、極右のような偏った視点も同じこと。
その時代に生きたさまざまな人たち、それも善なる心をもって一生懸命に生きていた人たちの人生に思いを馳せて、その人たちの心に共感するがごときの、広き視点に立って読めているかどうか。
思想においても、自分がどう思うか、ばかりではなくて、自分以外の心正しき人たちにとっても有益であるかどうか、間違った生き方をしている人に対しても有効な指導たりえているかどうか、そういう思想内容であるかどうか、ということを、極力、自分の自我に偏ることなく、自我を離れる修行をしつつ、読もうと努力しているかどうか。
人は、自分という個我に依らずしては、最初の出発点は持てないものだけれども、その自我から離れる修行も深めてゆかなければ、自分を離れた広い視野で物事を観る、ということにはついぞ到達できない生命でもあるのでしょう。
自分という個を生きながらも、出来る限り、多くの人たちの視点をも加味できるような、理解した上での思考が出来るような、そうした深い叡智の人を目指したいものですね。
安易に出来上がってしまったり、慢心したり、天狗にならないように、自分を戒め、己の未熟を自戒して、そうして淡々と、謙虚に、素直に、神仏に対しては敬虔な気持ちで、心従順な姿勢で、真理を学ぼうという気持ちでもって、生きること。