貪欲、その他の欲について考える | LEO幸福人生のすすめ

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 『宗教選択の時代』を読み返していたら、六大煩悩の貪・瞋・癡・慢・疑・悪見についての解説の箇所があって … これらの煩悩から脱却するというのは、その反対の境地をつかむこと、のようなお話があって、なるほどなるほど … 

 

では、貪欲とは何かと言ったら、とんよく、どんよく、ガツガツとあれが欲しい、これが欲しいという欲望を貪欲と言う、といって、そうした定義だけに囚われて自分を甘やかすと、

 

イヤー自分はそんなガツガツした欲は無いから、貪欲とまでは言えないかな、などといって、そのままスルーしかねないという危険性および自己への甘さ、という問題があるように思いますしね。

 

食欲、睡眠欲、性欲、 これらの三大欲求の他にも、金銭欲に地位欲、名誉欲、その他の物欲、いろんな欲があるわけだけれども、

最初の三大欲求なんかは、人間として肉体に宿って生活している以上、ゼロにするというわけには行きませんからね。食欲はあって当然だし、睡眠欲もあって当然、これがあるから眠くなって、きちんと眠って休息を取るわけだし、食欲がなかったら、栄養失調になっても気づかずに、痩せこけてしまって倒れてしまう、ということになるでしょう。定期的にお腹が空くから、栄養を摂取する必要があるなと食べ物を求めて、動き出す。

性欲だって、これに翻弄されたら動物並にまで堕す人もいるわけですが、これが無かったら人類は滅亡すると言われているわけで、男女の営みは激減するでしょう、この性欲がなかったら。

ということで、あらゆる欲が、いくら危険だからといって、これを完全になくすことは出来ない。金銭欲がゼロだったら、金に無頓着な人間となって、とんでもない騒動を巻き起こすだろうし、家庭などもてるわけもない、ってことになりかねませんしね。

大切なのは、適正、ということで、分に応じた欲に留まっているか、必要を超えて異常なる欲求までに高まってしまっているか、その欲に振り回されてしまっていないか、ということなのだと、いまの私は思っています。

 

ご法話では、欲といっても、その人自身が、求めて正当であるというようなそうした欲の範囲であったなら、自己顕示欲にしても、承認欲求にしても、これは不当とは言えずに、有って当然の欲求ということで、これは煩悩にはあたらない、という視点があるようです。これはとても重要なポイントだと、読み返してあらためて考えさせられました。

欲求と言っても、それが正当な欲であるか、その人が求めて、それを叶えられても不当ではない、そういう欲求であったなら、これは是とされる。

しっかりとした仕事をして、それに相応しい給与額を求めるのは、これは過ぎたる金銭欲ではないし、正当なる要求ですね。働きに応じた給与を支払ってもらえないとなったら、これは会社の方が不当なのであって、だったら働き場を変えるとか、そういう行動を取ることは、正しい人間的行動であるでしょう。

すべての要求が、欲といって否定されるわけではない。分に応じた正当な要求であるのか、それとも、その人には相応しくない過ぎたる欲望であるのか、この自己判定が必要であり、重要なるポイントとなる、ということなのでしょうね。

 

きちんと努力して、それに見合ったものを求めること、結果にふさわしい評価を求めることは、これは過ぎたる欲望ではないし、煩悩でもないし、正しい人間としての要求となる、ということでしょう。

それとは反対に、それを得るに相応しい努力をしていないのに、果実のみを求める、たとえば一獲千金の棚ぼたみたいな儲け話を狙う、だとか、その際の欲望ですね。賭け事なんかで、一挙に大金を得ようとか、こういうのも、それを得るに相応しい努力をしているとは言えないので、努力に相応しない、一獲千金のもうけを狙う欲望、という判定になるのだと、わたしとしては考えますね。宝くじその他、遊び程度でたしなむくらいならまだしも、それにのめり込むようでは、これは完全に煩悩に翻弄された精神状態と言うしかないのであって、貪欲に完全にあてはまるだろうな、と考えますね。

 

性欲にしたって、これは若いうちの欲求、これはどうにもしようがないというか、やはり肉体に伴って発生している欲である部分が相当にあるのではないか、と今になってみると思えて仕方がありません。

だって、幼少時にはそんな肉体的な欲、そういう意味での性欲なんて自覚してないのが普通であるだろうし、肉体が衰えてきて年齢を重ねて老いの時代に入ってくると、あの若い時のどうしようもない欲はいったいどこから出て来たんだ、というようになってくるのだろうなと考えてみると、これはやはり肉体の元気度、若さに比例して強まる、肉体に相当影響を受けて出てくる欲の一つではないのか、とも思えてきますからね。

これが老人になっても肉欲衰えず、いつまでもギラギラしているとかになってくると、これは死後も、色情地獄に堕ちて悶えることになるのかな、とか、そんな風にも思いますし、とはいっても若い時代だから許されるわけでもなく、限度を超えて良識を外した行動を取ってしまったら、それはカルマや罪として刻印されるとも思いますしね。なかなかに難しい問題だし、自信を持った答えを出せるとも言いかねますね。難しい。

しかして、年齢を重ねてみれば、やはり徐々に、異性への愛や憧れというのは、より精神的なる方の比重が増してくるようにも思いますから、やはり精神あっての愛であって、肉体の愛は一種独特で、地上的なるものという部分が大きいのではないか、と今になっては冷静に考えることが多々ありますね。

 

名誉欲や自己顕示欲、こういったものも、難しいといえば難しい。

何の才も無い平凡人であって、いやぁ私には自己顕示欲も自惚れ心も自慢の心もありません、いたって謙虚です、なんて言ったって、これは果たして本当の謙虚かといったら、謙虚さというのはそんな簡単なものではないでしょう。

実際に、なにかの能力や才能の部分で秀でたところが自分に有ったら、その点に自惚れるのは普通であるし、能力がありながらも謙虚である、というところに魂修業の難しさがあるのであって、十分な能力を持たない時点で、自分は自惚れていないから謙虚だ、では済まされないのであって、自惚れるような力を持った時に、それでも謙虚さを堅持できるか、その課題こそが難しいのだ、と私は思うんですけどね。

人は誰しも、何かしらの部分で秀でた部分を持っているので、そこに自惚れる、その得意部分に寄りかかってしまい、それのみに依存して、そこに自惚れて、自分のそれ以外の欠点は顧みなくなる。そういう厄介な始末に陥ることもあるので、要注意。

長所があっても自惚れず、短所を改めることに勇敢でなくてはならない。バランスが大事。長所に自惚れて、短所を顧みないのは、ダメな生き方であって、長所がありながらも謙虚であり、短所を改めることに潔い人間になりたいものですね。

 

貪欲の貪だけで考えても、自分を顧みるとなったら、そう簡単に、自分の中の「過ぎたる欲」の部分をチェックしきることは難しい。分を超えた欲望が無いと言い切れるだろうか。すぐに言い切る人は自分に甘い人でしょう。甘いから自己観察が甘いのです。そう思ってしまいますが、自分に対する戒めですね。自己の点検は終わるということがない。いまは謙虚なようであったとしても、自分が伸びて成長して、周りから認められるようなことがあると、途端に自惚れてしまって増長する人は多いわけですから。

さらにひどい場合には、自惚れるような要素が無いにも関わらず、自分に異常なる自惚れ心を抱いている人もいるので、これはどうなんだろう、と思ったりもしますね。

実際には、自分の能力は20か30しかなくて、周りからの客観評価もその通りなのに、当人ばかりは自分のことを100どころか、200や300、あるいは1000くらいに自己評価してしまっている自惚れ屋というのも、広い世の中にはいますから、こうなってしまうと、これは貪欲でもあるし、自慢の心、自己宣伝が過ぎれば、自己顕示欲の最たるものともなるだろうし、やはり分を超え過ぎた欲望ゆえに、みずから滅びる、ということになってしまうでしょうね。

まずは、自分自身の能力や性格、心をよく治めることが大切。そうして自分の力や才能、世の中に対する貢献度、存在価値、などを客観的な目でよく自己分析して、そうした自分の正当なる立ち位置をよく知ること。自分の分に応じた地点を弁えること、自己顕示が過ぎていないか、分を超えた名誉欲や世間からの評価を求める気持ちになっていないか、適正な欲に収まっているかどうか、その他の欲も同じこと、よく自分の分を知ることが大切で、これが出来れば出来るほど、自分に相応しい欲求とはいかなるものかの自己分析が出来るし、自己の修正ができますからね。

しかして自己評価を間違っていて、あまりにも自分に自惚れ過ぎていたり、あるいは反対に自己卑下しすぎていたりしたら、過ぎたる欲望に翻弄されるだけでなく、本来求めてしかるべき欲求さえ求めずに、かえって当人にとっても、他の人たちにとっても損失となってしまう、ということもあるかもしれませんね。