渋沢栄一は、儒教の開祖・孔子をとても尊敬していた。
儒教での学びが、自分を鍛え上げてくれた、と述べている。
わたしレオは、思想を勉強した順番としては、キリスト教と西洋哲学を学生時代から勉強し始め、それから幸福の科学の会員となり、それ以後、仏教やその他の思想を勉強する、という順番でさまざまな思想勉強をしてきたのだけれども、
儒教や日本神道の教えというのは、当初は正直あまり関心が起きなかった、というか、だいぶ遅れて学び始めた、という学び方をしてきたものである。
儒教には霊的な教えが欠けている、と言われていたことと、日本神道には教えがあまり無い、と言われていたことも影響してか、あとは先天的にあまりシンクロ感を感じる思想でなかったので、そういう後回しになってしまったのかなぁ、と反省するところがある。
ところがそうは言っても、儒教の教えというのは、日本における徳育においては、中心とも言うべき教えであったはずだし、道徳と言われる時の日本的道徳観の根底には、この儒教がしっかりと根を下ろしていて、儒教無くして日本人の道徳観もまた無し、と言ってもいいほどに、現実問題として、人の心を鍛え上げる教えとして、とても重要な教えであったことは、今も昔も変わらない、と今では思っている。
「学びて時にこれを習う。また説ばしからずや」とは、学問をして、それを日常生活の中でいつも自分のものとして復習練習すれば、その学んだものはすべて自分の知識となり、物我一体の境地に達する。これが 知行 合一 である。喜ばしいことだ。
漢文の書き下し文を、さらにわかりやすく説明してくれている、渋沢栄一翁の解説。
学びて、時に、これを習う。とは、
書物を通して、知識的に学ぶ、読んだ後では、それを日常生活の時々において、自身の生活、生き方、心構えに、その教えを適用させて、これを習わないといけない。習得しないといけない。
単に、書物にある活字文章を読んで、それを暗記したら学びが出来た、わけではなくて、心の教えとして、実習しなければ、それは習得するための学習にはなっていない。
学習とは、学ぶ、習う、という言葉がセットになっている。セットで学習なのであって、本を読むだけでは、学びの入り口に立っただけのことであって、その学びを自分の生き方・考え方、生活の仕方に適用させて、それを自身のものとして習得するまでに、反復実践して、身に着けてゆかないといけない。
そういうことを、この孔子の言葉は述べているわけで、渋沢翁もそのように説明してくれているわけです。
我が事として学ぶ。自分の心を変革するために、その教えを今の自分に適用させて、教えから自分の生き方が遠いようであったなら、どうすればそのような生き方を、自分自身の生き方と出来るかを、よくよく深く考えて、習得すべく日々努力を続けること。自己変革の意志、実践ですね。
これをやらずに、ただ他人事のように 『論語』を読み、その全文をたとえ学者の如く暗記したとしても、その教えが自分の生き方とまったく乖離しているような、そうした他人事の読み方であったなら、この人は儒教を理解しているとは言えない。論語読みの論語知らずとは、このことなり、ということでしょう。
『論語』の教訓は簡単にこれを紙上で論評したり、またはこれを尊い教訓だとしながらも生かさずに放っておいて、敬遠主義をとり、得手勝手を言う人が多いように思われる。これは私が大いに残念に思っているところである。
『論語』の言葉を、単にことばの上だけで、あーでもない、こーでもない、なんて議論したって、その教えを、自身の生活、自身の人生において生かせるような学び方が出来ていないのなら、それは 『論語』を正しく学ぶ人間の姿勢ではないのだ、ということ。
他人事のように、冷ややかに、距離を取って、そうして他人事のように、評論家のように読むだけの人間、こういう人があれこれ幾ら論じようとも、そんなところに、 『論語』の理解は微塵も見られないであろう。
他人事や、距離を取った冷ややかな傍観者の態度では、生きた思想の学びというのは、出来ないんですよね。
以前、記事でも書きましたが、宗教改革の熱狂を理解し、語るためには、その人自身が宗教的に深い理解が出来るだけの、素養がなくてはならない。
わたしは無神論ですが、などと言う日本人学者が、宗教に関する歴史事件を的確に論じることなど、出来るわけがないのであって、他人事の外からの傍観者的態度でもって、その時代の宗教的熱狂の真なる意義が、解き明かせるはずもないと、わたしは思うんですね。
無神論者が、真に深い信仰心をもった人間の、その熱意、情熱、その行動の意味を、語る資格があるだろうか、洞察するだけの知恵があるだろうか、といったら、無神論の輩に、深い信仰心の何たるかが解かるわけもありませんから、問題外、と言うしかないわけです。
現代において、深い宗教心を持った人が、もし当時の時代にタイムスリップして生まれ変わることが出来たら、おそらくその人は、その時代においても宗教的熱狂の中に身を置くことになるでしょう。
その反対に、現代において無神論を唱える人間は、当時に同様にして生まれ変わったとしても、ついにその熱狂の意味を理解することも出来ずに、冷ややかな傍観者に留まることでしょう。
魂の熱狂、理解力、そうしたものは、過去か現在か未来かによって簡単に変わるものではなく、真なる理解力を持った人は、過去の時代の意義も正しく感得できるだろうし、その反対に、冷めた心の傍観者は、どの時代を見ても冷ややかな他人事の目でしか見れないことでしょう。
渋沢翁は、↓このような言葉も述べていて、興味深いです。
そもそも人間にはどれほど知恵があっても、その知恵に親切なところがないと、その知恵は悪知悪覚となり、悪いことをして人を害し、身を損なってしまう。
そこで私は人を使うときには、知恵の多い人より人情に厚い人を選んで採用している。
どれほど知恵があるように見える人であっても、その人の知恵に親切なところがなかったら、その知恵は悪知恵にしかならないであろう。というようなことを言っているわけです。
これは、親切、というところを、他の人に対する優しさ、与える愛の気持ち、という意味で置き換えると、言っていることの意味がよくわかると思います。
他の人のことを思う真心、優しさ、そういう利他心をトーンに持った人間でないと、知をいくら働かせているように見えても、利他の知にならない、その対極にあるところの、利己的な知にしかならない、という意味ではないか、とわたしは理解しますね。
利他心があっての、知の探究、知の働きを、その人は成しているのか。
それとも、自分本位の利己主義な心のままに、知識を増やして、頭をフル回転させているだけなのか。その場合は、自分の利害損得、そうした自分を中心とした利得の観念から離れた思考は出来ないだろう。いざとなったら、自己保身に走って、他を犠牲にして自分のみ生き残ろうと画策する、そのような知になりかねない。
自己保身のために、詭弁を弄して自己正当化の屁理屈をこねて、責任回避をしようとしたり、他者に責任転嫁して、自分には責任が無いかの如き詭弁を生み出すのも、これと同じことですね。
利己心のもとにある、エゴイスティックな知。ここには、他者への愛が無い。渋沢翁的に言えば、親切なところがない知恵、ということ。
だから渋沢翁は、知というものが、そんな利己的な使用をされることが多い危ういものであるのなら、自分は、知に聡い人間よりも、人情に厚い人の方を採用して、こういう人と一緒に働きたい、そう言っているわけです。
情がなければ、知は空しい。愛無きところの知は空しい。利己主義者の知は、知ではない。仏智という意味での智とは程遠いものにすぎない。そう、わたしは思います。
すべて君子が事をなすには形にとらわれず「根本」を把握すべしということ。根本さえしっかり立てば、枝葉はおのずから繁茂するように、目上に仕え他人に交わる方法はおのずから生まれてくるものである。
幹と枝葉。
根本の部分、幹が何であるかを過たずに把握して、その根本をしっかりと忘れずに立てて、それを守ることを中心に置いて生きれば、枝葉の部分はおのずと、あやまたず、在るべきところに付いてくる。
幹の部分をしっかりと押さえておくことが第一であって、枝葉は幹がしっかりと立ってこその、枝葉のあるべき位置なのであって、枝葉に真っ先に囚われて、幹を見失うは愚かである、ということでしょう。
しかし、世の中には、枝葉の方に走って、幹を見失う。根本において大切なのは何であるのかを見失い、枝葉のどうでもいい議論に夢中になってしまい、肝心要の大切なことは何であるのかを忘れ果てて、道を逸れていく人も結構いますよね。
霊的に言ったら、枝葉の些事にこだわって道を逸れていくパターンが青いのは、裏側世界の仙人系にこのタイプが多いかな、という感じがわたしはしています。
どうでもいいことへのこだわり、王道を歩む者とは違うところに価値を置いていて、どこかズレている、ピントがずれている。そうして王道を歩む者が大切にしていることが、彼らにとってはそれほど大切ではない、二義的なものに貶められている、そういう特徴があるように思います。
動機が大切である、という表側の考え方に対して、いや結果が大事なのだといって、結果主義に堕してゆき、結果が出なければ意味が無い、価値が無い、とまでの極論に走ったりする。
霊的能力は付随的な能力であって、それが最も価値があるものではない、という表側の考えに対して、いや霊能力こそ偉大なる魂であることの証である、と、こう来たりする。
あるいは、愛が大事だという表の考え方に対して、愛など弱さの代名詞に過ぎない、力こそ正義である、などと言い張る魂も結構な数いたりする。レプタリアン系の考え方はこうだろうし、表側がもっとも大切にしている愛の価値が、そこでは非常に軽んじられていて、いやそんなものより、強さだろう、勝ち負けで勝つことだろう、勝つためなら何をやってもいいんだ、とまで言う輩も出てきて、こう考えてくると、人がその生き方の根幹に、どのようなものに価値を置く人生観を抱ているかが、いかに大切であるかを、考えずにはいられなくなりますね。