『学びて厭わず、教えて倦まず “知の巨人” 渡部昇一が遺した学ぶべきもの』を読む | LEO幸福人生のすすめ

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故・渡部昇一さんを偲んで、かつての教え子たち、門下生たちが、師との交流の思い出や、その著書の言葉を振り返ってさまざまに語っている、という内容の本。

帯には、櫻井よしこ推薦、とある。

 

上智大学において、直接教えを受けた生徒たちの目には、渡部昇一という人は、どのような存在として映っていたのか。

著書を読んでいるだけの一般読者には知られざる、そうした一面をも語ってくれている点にも興味を覚え、購入して読み始めました。

 

いやぁ、わたしも高校生の時点で、もっと先を読む目があったら、上智か青学に行っていた方がよかったなー、などと時々思いますけれども、でも、そうしていたらキリスト教の影響を受け過ぎたかもしれないなぁ、とも思ったりもして。

 

渡部先生に育てられたかつての学生たちはいま、多くが教壇に立ち、先生から受け取った学恩を、自分の学生たちに注ぐことによって恩返しをしている。

 

その渡部昇一さんも、恩師・佐藤順太先生から学んだ学恩を生涯忘れずに、その思いを心に秘めて、自分の教え子たちを薫陶してきたのでしょう。

先生が教え子たちへ伝え、その教え子がまた先生となって、次の世代の生徒たちへ教えを授けてゆく。なんという素晴らしい、学びの連鎖であることか。

 

渡部昇一さんが晩年出演していた 『書痴の楽園』という番組について、教え子が語ってくれています。

わたしは、そんな番組があったことすら知りませんでしたが、渡部さんが自身の書庫(15万冊の蔵書を誇る)を、宮崎美子さんを案内しつつ、書物について語ったりする番組だったそうです。

この番組の趣向について、その教え子は、これは渡部先生が若き日に、自身の先生である佐藤順太先生の書斎を訪れた時の体験が、その番組発想の原点になっているのではないか、と述べていました。

渡部昇一さんは確かに、恩師・佐藤順太先生の家を訪問して、その書斎でさまざまな教えを個人的に受けたことの喜びと感謝をしばしば著作で語っていたように思います。

この佐藤順太先生の名を知っている人は、今となっては殆どいない、のかもしれないけれど、幸福の科学の霊言では、渡部昇一さんの先生として登場して、さまざまなことを語ってくれていましたっけ。

 

 

 

日ごろから先生は「アウトプットの質と量が大切」だと言っておられたが、まさにそのことを実践されていたことがよくわかる。

 

先生は、私たちに書評を書くことをよく勧められた。そのことで、本を丁寧に読み、自分のことばで論評する力を鍛えることができる。

 

 

読むだけでなく、書くこと、発表すること、アウトプットに転化することが大切、というのは、教え子たちにしばしば語っていたそうです。

書くことを目的にするようになると、読み方も丁寧になる、そうして自分の考えをしっかりと持って、さらに深く読み込まざるを得なくなってくる。そうした読み方が、論評する力を伸ばすことにもなって、それが書く力、書評をより上手に書くことへつながってゆく。

インプットだけではアウトプット能力が上がるわけではない。それは実践せずば身に付く力ではない、というのは本当にその通りだと思います。

 

「情」が主体となる場合は大和言葉、「知」の場合は漢語、という表題の章も面白いです。

 

日本語の中に漢語が取り入れられても、和歌には決して漢語は使われず、大和言葉だけが用いられたということを指摘される。外来語である漢語を許せば、教養による差別が出てくる、したがって、和歌は大和言葉であることを原則とし、そこに「法の前の平等」ならぬ、「和歌の前の平等」が成立する。 これは、日本学における先生の一大発見だと思う。この指摘によって多くの知識人、評論家より注目されたと言っておられた。 和歌だけでなく情緒的な詩においても用いられる語彙は大和言葉であり、精神を鼓舞するような歌には漢語が用いられるとも指摘された。

 

 

 『日本書紀』や外国向けの文書などは 漢文で書かれていたけれども、国内の文化に関しては漢文ではなく、(和歌を代表とする)和文、大和言葉で書く、という文化が日本では醸成されていった、という指摘は重要な指摘だと思います。実際、この指摘によって、渡部昇一さんは多くの知識人から注目されたとのことです。

 

漢文を使いこなせるかどうか、ということになると、そこには漢学の教養というものが求められる。知識の多寡による差別が生じてくる。

しかし、日本の古来のことばである大和言葉を使えばいいのであったら、これは学者でなくても、市井の人であっても使うことが出来るのだし、女性であっても美しい大和言葉をつかって、男性に優るとも劣らない優れた文学を描くことが出来る。

和歌による文学の世界こそは、ことばのもとの平等が実現されている場であった、というのは非常なる洞察だと感心いたします。

 

いま現在であっても、外来語や漢字の熟語を多用したような学術的な文章では、多くの人に読まれるのは難しいでしょう。言葉自体がそれだけで堅苦しくなって、抽象表現ともなって、イメージ化しにくい、という弱点がこれらの表現にはあるからで、

しかして、ひらがなの多い表記にしても通用する、美しい大和言葉による表現は、たとえ読者がまだ幼い子供であっても、その心に響く、そうした言葉の響きと、魂へ伝わる心がこもっているという意味において、心の教えに相当する内容や、わかりやすい物語小説においては、こうした大和言葉による表現の方がやはり向いている、と確かに思えますしね。

 

 

話はさらに飛びますが、 『命令』に関しての考察にも、深く興味を覚える部分がありました。

 

命令の本質とは問答無用に従うことを要求するものであり、その命令は直属の上司からのみ出る。命令には説明や説得は不要であり、命令されたものは常識や良識で判断せず、有無を言わずに服従しなくてはならない。これは、カントも同じことを言っている。「命令」を表す英語のorderには「秩序」という意味もある。

 

命令というと、無理やり従わされる、強制というニュアンスが強くてイヤだ、という拒絶感を感じる人の方が、現代では多いのでしょうか。

ここでは、命令の本質とは、問答無用で従うことを要求するもの、とあります。問答無用で従うなんて真っ平御免だ、という反応をする人の方が、では正しいのでしょうか。

 

常識や良識で判断するのではなく、有無を言わずに服従しなくてはならない、なんて言われたら、そんな理論は明らかに間違っている、と言われそうだけれども、カントはそう言っているのだ、という指摘もあります。

それから、命令という言葉の order には、秩序という意味もある、ともあります。

 

理不尽な上司の命令や、親の命令、あるいは軍隊などでのこれまた理不尽な命令に、問答無用で従わねばならない、となったら、それはおかしい、と確かに思いますよね。

けれども例えば、神の命令を受けたジャンヌ・ダルクのような例を引いたらどうだろうか。

この神の命に対して、あれこれ反論して言うことを聞かず、自分は自分で判断したいのであって、神の命令だからといっても強制されるのは嫌だ、強要されるのはイヤだ、と言い張るのだったら、こういう反応しか出来ない人は、ジャンヌの置かれた立場や当時の心境を、まったく理解も想像も出来ないことを吐露しているに等しいでしょう。

崇高なる立場から降りてくる命令に対して従うのと、崇高でも何でもない存在からの命令に理不尽に従うのでは、その命令の意味が違うので、同列には論じることは出来ないのだ、とわたしは思います。

カントが言う、道徳法則に従わねばならないという意味での命令遵守は、これは崇高なる理念に従うことに関しての話であって、理不尽な上司の命令に盲目的に従うこととは違う話なわけです。

 

などと自分的な感想を抱きつつ、続きを読んでゆくと、以下のように渡部さんの教え子は語っています。

 

西洋における修道会も英語ではorderである。その厳しい戒律は、修道士に完全な服従を要求する。その意味では、軍隊も同じである。しかし、日本の軍隊は無くなったのに、西洋には千年以上も続く修道会がある。この違いはどこから来るのか。それは、「命令を出す方への配慮」のあるなしである。 聖ベネディクトは命令者に慎重さと思慮深さを戒律として要求し、「羊の群を過度に疾走せしめないよう」に命令する立場にある人に命じたその配慮が、日本の軍隊の命令者には欠けている。

 

修道会も、英語では同じ単語 order だそうです。

修道会では、厳しい戒律に従うのは当然の義務であるし、修道院長の命令には絶対服従、従順に従わねばならない、という掟があるとのこと、以前にブログ記事で何度か書きましたが、これまた order であって、命令ですね。

神に仕える修行組織としての従順、そのリーダーたる修道院長への従順、さまざまな戒律に対しての従順、従うべきこと。

これに対して、俺はそれには従わないよ、そのルールは無視する、守りたくない、などと言うのでは、そもそも入る資格もないわけで、資格剥奪で追放処分に相当する。それくらい、聖なるものに対しての従順なる態度というのは、本来からして当然の義務であり、責務であるのだ、という考えからしたら、現代の通常人の考えは、どれほどこうした聖なるものへの従順なる気持ちを忘れ果てて久しいか、という逆批判も可能なのではないかと、わたしは思ったりもします。

 

日本の軍隊と、西洋の修道会を比較しつつ、前者は無くなったのに、後者は千年も続いていまだ残っている、という点。

命令をする存在に、それだけの権威、本当の偉大さ、従うべき権威があるのかどうか、そうして、その存在に対する畏敬の念があって、それがゆえの従順であるのかどうか、というのがポイントなのだと思います。

軍における命令であっても、司令官に本当に徳望があって、部下たちからの尊敬を一身に集めたような優れたるリーダーの言であったら、部下はあれこれ文句を言ったり、理由を問うたりせずとも、素直に従う、ということがありますからね。

戦国武将で言ったら、武田信玄を心から尊崇した家臣は、いちいちその本心を訊ねなくても、その命令をあるがままに受け取って、素直に従ったことでありましょう。それが本当の意味での、命令に対する従順であり、命令を出す存在への配慮の心があるがゆえの、従順であることの大切さ、ということになるのだと思います。

 

ましてや、先ほどの修道会ならぬ、仏陀教団への帰依であるとか、イエス・キリストへの信仰、というレベルの内容になったならば、この帰依の精神、信仰態度というものにおける、従順さ、素直に従うことの大切さ、というのもまた、当然、大切なるべき心構えの一つであることは、間違いのないことであるのだと、わたしは思います。

これに対するに、常識や良識でもって対峙し、自分は自分の考えでもって判断する、仏陀の言葉だからといって聞くとは限らない、キリストの言葉だといっても従うつもりなど無い、といっているのでは、これは帰依の立場ではないし、信仰者の立場でも無い、ということにもなりましょう。

 

命令の本質、という議題について、宗教的な領域にまで踏み込んで考えれば、いったい命令に従うというのはどういうことであるのか。神の命令という意味で捉えたら、さまざまに遺されている、神が人類に与えてきた命題というのは、これは神仏が、人間たちよ、このように生きなさい、というある意味での命令とも読めるわけであって、これは言葉としては命令のニュアンスを含みつつも、実際には強制されているわけではない、そういう自由放任な立場のなかに、すべての個々人は確かに置かれている。

置かれているけれども、その中で、自発的に決意し、神の命に従うと入ってくるのが、帰依の心を持って学ぶ、信仰心をもって学ぶことに命をかける、ということに当たるのではないかと思います。

いずれにしても、その心の姿勢において、従順であること、素直に従う気持ちを持っていること、というのは、とても大切な基本姿勢なのではないかと、わたしは思います。

すぐに、俺はこう思う、わたしはこう思う、といって自分の我見・私見によって、偉大なる人の言葉を軽々しく判断するのは、これ自体が自己過信のすぎる慢心、自惚れた現代人ならではの誤謬なのではないかと思ったりもしますね。

 

などと、さまざまなことを考えさせられつつ、こうした、弟子たちが先生の恩義を振り返りつつ語る、といった本を読むことはまた、違った角度から、こうした著作家の言葉を振り返る視点を与えてもらえることにもなって、良い勉強になりますね。