大宇宙は一つの心なのです。情だといってもよろしい。 ~岡潔~ | LEO幸福人生のすすめ

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毎日記事を書くのは、大変だ。

時間がなかったら書けないし、身体が疲れすぎていても書けない、というか、書く気力すら起きてこない。何より重要なのは意欲であって、その意欲自体が、心身ともに疲れすぎいると出てこないし、ある程度の精神的な余裕、肉体の健康が両立していないと、出てこない気がする。。

 

という前置きは置いといて、ときどき紹介している、岡潔先生に関する紹介記事。

 『数学する人生』より。

 

ちなみに私は、小学2年生くらいの時から、長らくずっと得意だったのが、算数(数学)と図工(美術)でした。

だから数学的思考は得意な方なんですが、この岡潔博士は単に得意とかいうレベルではなくて、数学の世界的権威です。

でありながら、仏教理解の深さレベルが尋常じゃない、というプロ顔負けの仏教認識のハイレベルさにおいて、驚くべき人物だとつくづく感じいっています。 

 

 

本質からいえば、赤ん坊のときは、人らしい情がそのまま出ます。大人になるとそうはいかなくなる。その主な理由は、自己中心の濁りです。

 

生まれたばかりの赤ん坊は、無垢であり、純真であり、汚れがない。

その透明なる心には、天国の光がストレートに差し込んでいて、光り輝いている。

 

赤ん坊のときには、情がそのまま出ます、と述べられています。

この情というのは、深い意味での情ですね。心の奥深さ、感情、情愛、心そのものとも言っていい、魂の中核部分としての心、そのことを<情>と読んでいるのだ、と理解すると、わかりやすくなります。

 

赤ん坊は心が汚れていない。情がそのまま綺麗な状態で存在している。

しかして成長して大人になると、そうではなくなってしまう。なぜか。心が汚れてしまうから。なぜ汚れるのか。自己中心の思いが重なれば重なるほどに、それが濁りとなって本来の美しさを曇らせてしまうから。

 

これは、魂の実相を説明する言葉としても、よく分かる気がします。幸福の科学の言葉で言ったら、想念体の曇り、心の曇り、こういったことに該当すると考えると、わかりやすいのではないか。

その心の曇りはなぜ生まれるかといったら、自己中心の心、そこから発生しているのだと。

 

自我我欲、自己中心、利己主義、エゴイズム、エゴイスト、自分勝手、ワガママ勝手、自分のことしか考えていない、

こうした自分が自分が、といって、なにからなにまで自分中心の発想をしてしまうようになると、他の人などどうでもよい、自分さえ良ければいい、自分が満足しさえすればそれでいい、他のやつの考えなど知ったことか、というところまで行きつくわけで、これで心が曇っていないわけがありませんよねー、ということで。

 

<情>とは何か。岡潔博士は、次のようにも語っています。

 

人らしい情というものをよく観察しようというのなら、赤ん坊を見るに限ります。たとえばわたしの四番目の孫は、生まれて四十二日目に目が見えた。このとき、祖母に抱かれて、孫は祖母の顔をじいっと見ていた。そうすると見えたらしい。それで、懐かしそうににっと笑った。これが人らしい情です。

 

 

生まれて間もない赤ん坊が、自分のおばあさんの顔をはじめて見た、自分の目で見ることが出来た、その瞬間、笑った、懐かしそうにニコッと笑った。これが<情>だ、と言っています。

 

自然、天然の、素直なる心、無垢なる心、喜ばしいことを、ただ感じるままに嬉しいと思う気持ち、理屈ではなく、自然発生的に起き上がってくる気持ち、心の感動。

これが<情>であるのだ、と。

 

<情>こそが、人生を生きる上での基本として、もっとも大切な部分であるのだ、と岡潔博士は言います。

 

人は何も知らないということをさっきから見てきました。何も知らないのによく生きていけるものだ、一日一日を暮らせるものだと思いますが、よく調べてみますと、人は情の中で生きている。何も知らなくても、嬉しいときは嬉しいし、悲しいときは悲しい。情さえ健全なら、こんなに無知であっても、人生を送るに差し支えがないのです。

 

人は本当の意味で言えば、知っていることなど何も無いようなものなのだ。

人は何も知ってはいない。知らないでいる。にも関わらず、平気な顔をして皆生きている。よく生きていられるものだなー、と岡潔博士は言うわけです。

知らんのに、よく生きていられる。それは何故なのか。

 

人は実は、知によって生きているのではなくて、情によって生きている存在だからだ、というようなことを、岡潔博士は言います。

何も知らなくても、無知であっても、嬉しい時には嬉しく感じ、悲しい時には悲しく感じる、そうした情緒の働き、情の働きというものが、すべての人には備わっているから。

 

情が健全であったら、無知であっても、人生をおくるには問題はないのである、と言っています。

これはその通りだと思いますね。

知力がずば抜けて発達しなければ、生きてゆけない、などということになったら、人間の一生は大変なことになってしまうでしょう。合格点がもらえる人間など、ほとんでいないのではないでしょうか。

しかして、情によって生きるのであったなら、万人に幸福なる人生が可能ですよね。

たとえ知識つたなくとも、教養を備えていなくても、心純朴で、素直で、美しい心の持ち主であったなら、他の人に優しい心を持ち、神仏を心から敬い、感謝の気持ちでもって生きることが出来たなら、それこそが人生の幸福の原点なのではないだろうか。

 

知が第一ではない、ということ。知は、基本条件でもないし、絶対条件でもないのだ、ということ。そのことに注目しておきたいと思います。

 

知は頭の働きであって、情は心の部位に相当する、という理解をしておくと、理解を過たないで正しく理解することが出来るかもしれません。

大切なのは、心の方であって、情のところであって、ここを美しく磨くのが心の浄化に相当するのだと思います。

そうして頭脳的なる部分、一般的に言う知、知力、知識や情報を駆使してあれこれ考える能力というのも、これも大切な力ではあるのだけれども、心の部分ががらんどうのような人間であっては、いくら知にばかり走ってもダメであるのだということも、世間ではよく知られたことでしょう。

頭でっかちで冷徹に過ぎて、自分中心で他の人への情も愛も無い人間の、醜さ、愚かさ。そうした人間像を思えば、心あっての知、という視点がわかるのではないでしょうか。

 

大宇宙は一つの心なのです。情だといってもよろしい。その情の二つの元素は、懐かしさと喜びです。春の野を見てご覧なさい。花が咲いて、 蝶 が舞っているでしょう。どうして蝶が花のあることがわかって、そこへ来て舞うのでしょうか。  

花が咲くということは、花が咲くという心、つまり情緒が形となって現れるということです。その花の情緒に蝶が舞い、蝶の心に花が笑む。情には情がわかるのです。情の世界に大小遠近 彼此 の別はないから、どんなに離れていてもわかり合うのです。

 

上の文章を読んで、どのようなことを感じるでしょうか。

何やら難解でむずかしい、わかるような、わからないような、むずかしいお話を聞かされているような … 。そんな感想を持つでしょうか。

 

ただ言えるのは、この岡潔博士の言葉を読んだら、理屈だけの数学人間の言葉でないことは、一読でわかるのではないでしょうか。

博士は、理屈を並べて書いているのではなくて、自分が感じる情の世界を、美しい言葉に乗せて、詩的な表現で語っているのだと思います。

数学者だからといって、頭でっかちの理屈だけの論理の積み重ねだけで出てくる言葉ではありませんね。これは詩情を知っている人の言葉であって、頭から出た理屈ではなくて、心から出た詩情をことばでもって表現しているものでしょう。

 

大宇宙の心、情。懐かしさと喜び。

蝶が、咲き誇っている花のもとへ飛んでくる。蝶の心が、花の心に感応して、そこに花が在ることに気づく。だから飛んでくる。見つける。そうして花もまた、蝶が飛んできてくれたことを喜んでいる。これが宇宙に遍満する情と情のふれ合いなのだ、と述べているのでありましょうか。

 

大宇宙について、岡潔博士は、こんなこともサラッと言っています。

 

大宇宙という全体の上の個体が人というものですね。全の上の個でなかったら、個というものはあり得ません。

 

大宇宙が全体の姿だとするならば、そこに生きる人間ひとりひとりは、個としての人間というのは、大宇宙という全体の上に乗る、一人の個である。

大宇宙という全体の上にある個体こそが、人間というものである。この個は、全体の上にあるからこそ存在し得ている。全体の上に在るのでなければ、そもそも存在のしようがない。個だけで存在し得るなどと勘違いしてはならない。

 

この言葉だけでも、神と人間、大宇宙と一個人の関係性の、その深い意味が短い言葉の中に凝縮して込められているのではないか、と思います。

 

と、ここまで書いてきて、以上の引用は、実は本文とは順番を逆さまにして、引用紹介しつつ説明しているんですけどね。あとの文を先に引用して、レオ注記をつけて、その次の文は実はそれより前に出てくる文章で、それにまたわたしの注釈をつけて、という手順で記事を作成しています。

紹介する時って、こんな風に逆から書いていくと、かえってポイントが上手く伝えられるような、そんな感じがするんですよね、わたし。

結論から先に述べて、実はそれはこういうことだよ、とあとから原因の方へ遡って戻ってゆく、という紹介方法、とでも呼ぶべきでしょうか。

 

ということで、話を戻しますが、

ここからは、岡潔博士の述べた順に戻っての紹介です。

 

知、情、意というものについて一度考えてみましょう。  

まず「知」ですが、知は常に心にあるかといったら、そうではなくて、あったりなかったりします。意志はもっと、働いたり働かなかったりします。しかし、情は常にあります。心がまるっきり空っぽというときはありません。

 

知・情・意について、面白いことを言っています。

 

知は、心にいつも有るかといったら、無いこともある、有ったり無かったりする、それが知というものだ、というようなことを述べています。面白い表現ですね。

意志もまた、働いたり働いていなかったりする、有ったり無かったりする、同じことですね。

確かに意志は、それを強く意志して働かせている意志活動、意志行為のなかでは、ハッキリと存在しているように思いますが、意志無きような心の状態も、容易にイメージできるようにも思います。だらけている時というか、まったくの受け身で動かず、みたいな、特に何かを意図して何かしようといった能動的な目的意志を持っていない状態、こんなときは幾らでもあるでしょう。

知もまた、そうであるのだと。

知はいつでも働いているようにも思えなくもない。いつも何か考えていたり、頭の中で言葉が浮かんでいる以上は、これは知なんじゃないか、といった屁理屈はそれこそ知の陥りがちな屁理屈に過ぎないかもしれません。

情、心が何かを感じている時、嬉しい時、感動した時、喜んでいる時、その時に働いているのは「知」でしょうか。感じているのは、心の方であって、頭の方の理屈思考ではないのではないか。

そんな視点で考えてみると、上の岡潔博士が言っている意味が、なんとなく分かってくるような気がしてきませんかね。

 

以下の文章を読むと、さらに考えさせられるような内容だと感じさせられます。

 

わからないものに関心を集めているときには既に、情的にはわかっているのです。発見というのは、その情的にわかっているものが知的にわかるということです。  

人と人が言葉を交わすと、話が通じる。なぜそんなことができるかというと、はじめから情が通じ合っているからでしょう。

 

 

知的な理解の前には、情による交流がある。

情的に通じるもの、感じているものがあって、これを後になって知的に認識するのである。

 

人と人との会話が成り立つのも、情と情の交流がまず先にあって、それがゆえに後から、知的な理解が成立する。

相手に対する情があるからこそ、相手を理解することへの道が開かれる、といった意味に解すれば、愛が理解を生む、とも言いかえることが出来るかもしれません。

 

情の働きがなければ、知的にわかるということはあり得ません。

 

 

人生は現象界にあるのですが、現象界があるためには、非現象界がある。情の世界という非現象界の基礎があるからこそ、自然界、現象界というものが成り立つのです。

 

 

此処まで行くと、情と知の世界と言いながらも、岡潔博士が言わんとしていることは、霊的世界と物質世界、神仏の理念、情によって存在あらしめられている、この地上世界、自然界であるのだ、という意味までも含んでいるように思えて、まさに驚異の言葉の数々に、驚かずにはいられなくなりますね。