渋沢栄一は言っている。
怠惰はどこまでいっても怠惰に終わるものであって、怠惰から好結果が生まれることは絶対にない。
怠けて暮らすことが、楽しい、だとか、ラクチンだ、なんていうのは、とんでもない考え違いに過ぎないのだ、と。
怠惰はどこまで行っても怠惰で終わる精神に過ぎないので、そんな精神が良い結果を導くことなど有り得ない。そう、言いきっています。
昔の狂歌に、こんな句がある。 「朝寝坊 昼寝もすれば 夕寝する たまたま起きて 居眠りをする」 まことにその通りで、一度自堕落に流れると、際限もなく惰眠をむさぼり、怠慢に陥るものである。
怠け心を自分に安易に許してしまえば、この喩えにあるように、朝も昼も夕方までも、グ~すか惰眠をむさぼって、それでいいやー、なんていう怠け者になりかねません。確かにその通り。
勤勉に生きる生き方の、これは真逆ですね。自分を甘やかして、気楽な方、負担の少ない方、労力のかからない方、ストレスを感じない気ままな生活ばかりを求めて、そうして自分を甘やかして、その結果、堕落しきった人生となる。
世間には楽天生活とか楽天主義とかいう重宝な言葉があって、そんな名目のもとにわがまま気ままな、むしろ自堕落な生活を平気で送っている人も少なくない。そういう人たちは、何の拘束も規律もなく、ただ 放 埓 に呑気に暮らしさえすれば、それで人生の安楽と考えているようだ。
だがこれは、物にたとえれば水草か柳の枝のようなもので、ただふわふわと水のまにまに、あるいは風のまにまに浮かび漂うことを〝幸福な生活〟だと見なしているのである。しかし〝本当に有意義な日々〟を送ろうとする者は、当然ながらこういう生き方には賛同しがたいし、もっと着実な考えを持っているはずだ。
楽天生活、楽天主義、なんて言えば聞こえはいいが、その実態は、単なるワガママ勝手の気ままなお暮し、それは自堕落な生活状態でしかないんじゃないの?
そう、渋沢翁は喝破しているわけです。
何の拘束もなく、規律も無く、放埓に呑気に暮らせれば、それが人生の安楽だと。
とんでもないよ、と切り返しているわけですね。
たとえば、宗教的戒律を守るのは、窮屈で不自由だから、そんなものには従わなくていい、無宗教、無神論の自分勝手主義がいいや、なんて言っている人が、真に自制心を持ち、自分を正しく律して、優れた精神を持つことなど有り得ようか? と問うてみたら、
あるわけがない、というのが答えになりましょう。
自分を甘やかして、気ままに生きているだけの自堕落な人間が、他の人を導けるような、そうした賢者たりえたり、愛深き人格者になりえるか、といったら、そんな甘い話があるわけがありませんからね。
自分を厳しく律して、つねに精進の気持を忘れずに、みずからの心を厳しく鍛え上げている人であればこそ、多くの人を導けるリーダーになれるんですよ。わたしは、そう思います。
では、安易な楽天主義を否定した渋沢翁は、どのような生き方ならば良い、と述べているのでしょうか。
つづくくだりにあるのが、以下の文章です。
そもそも人が一個の人物として押しも押されもせぬ風格を備え、優れた人間として世に立つためには、「自分自身の利害得失が、同時に社会の利害得失と一致するような仕事」を成し遂げる覚悟が必要だ。そして私の考えでは、「自分の性格を発揮し、高尚な趣味を満足させることがそのまま自分の利益にもなり、同時に社会の福利ともなるような生活」が、人間としての自然な生き方、円満で完全な生き方だろうと思う。 真の意味での楽天生活とは、この境地に達した生き方のことを指すのではないだろうか。
これは、仏教で言う『利自即利他』の精神そのものですね。
幸福の科学で教えている、あるべき理想の生き方もこれと同じく、利自即利他の精神そのものですね。仏教的精神が中心にあればこそ、必然的にそうなる。
渋沢栄一さんは、自分の好き放題に勝手に生きることなどは、放縦な自儘主義でしかない、といって切って捨て、
そうではなく、自分にとっての利害得失が、同時に、社会の利害得失と一致するような、そういう仕事に励んで生きることが大切だ、と言っています。
自分の利益が、社会の利益ともなるような、そうした利自即利他の観点からの仕事選び、正業に生きるべし、ということ。
自分にとっても社会にとっても有害であるような、そうした悪しきことに手を染めてはいけない。
自分が得をすれば、社会にとっては損であっても構わない、なんてのも当然否定されますね。これは公益を害して、己の利得にのみ励む悪しき政治家や役人その他、一般企業であっても、全体の利益を損なっても、自分さえ良ければいい、なんていう人間は、否定される、ということですね。
こういった利自即利他の中での人生を生きながらも、それでなお、明るい方を見て楽天的な気持ちで生きている人こそが、真の楽天家であって、単に自堕落に好き勝手に生きるのは、楽天でもなんでもない、と渋沢翁は言っているわけです。
渋沢翁が、これこそ真の楽天家と紹介している、大隈重信のエピソードが面白いですね。
大隈侯の楽観論については、なかなか面白いのでよく話をするのだが、明治のはじめに氏から民部省(後の大蔵省と内務省を合わせたような役所で、後に大蔵省に合併)で仕事をするよう勧められたとき、私が、「民部省の事務はほとんど知らないから」と言って断わったところ、「知らないからそれを創造してやるのである。日本建国の昔、当時の神々はその全部を創設したではないか」と言ってすこぶる楽観しておられた。
渋沢翁は、楽天主義を論じるだけでなく、これと真逆のところにある悲観主義についても論じ、
その総括がまた卓見で、この人のスゴさがよくあらわれています。
「楽観論者の説」も、 先に述べた「悲観論者の説」も、一応はもっともな理屈があるように思える。 だが、私は、まったくどちらにも同意することができない。なぜなら、悲観、楽観の両者とも見方が一方に偏り、両極端に走っているからだ。一方に偏った説というのは事の核心を突いてはおらず、また、いわゆる達観の境地に達したものとも言える。
楽観と悲観の間――そこに「達観」がある それでは達観とは何か。私は、中庸を得た観察のことだろうと思う。両極端に偏らないところに真理は含まれているのだから、言行が核心を突いていれば、その人は中庸を得た人、達観した人と呼べるだろう。 しかしながら、この中庸というのがなかなか得がたいものである。
孔子は、「君子は中庸す。小人は中庸に反す」と述べ、「中庸は君子の道である」と教えている。
とにかく、何によらず偏るというのはいけない。悲観、楽観を超越したところに自分の進むべき道はあるはずである。だから私はいつでも一方に偏らず、極端に走らず、その中間を取ってうまく進むことを心の習慣にしている。
儒学を深く学んだ渋沢翁は、孔子の言葉を引用し、中庸の心を述べつつも、これは仏教で言う中道の精神にもつながる、そうした深い意味合いでの中庸理解を語っていることが、感じられるのではないかと思います。
あらゆることの核心において、偏った視点ではこれを掴むこと能わず、両極端を去った中なる道にこそ、真実は在る、という卓見を、渋沢翁の言葉からは感じられますね。