わたしたちは 謙遜に、創造者なる神の前に、頭を下げねばならない | LEO幸福人生のすすめ

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もっとふれるつもりのところを筆が及ばなかったことなど、いろいろと不満が残った。が、わたしとしては、この書をひとつの手がかりとして、一人でも多くの方が聖書に親しんでくださるなら、という切実な祈りをこめてペンを進めたのである。わたしのこの願いを受けとめてくださり、聖書のなかにかくされている、いや、現わされている宝を、自分のものとしてくださる方が、一人でもあるならば、真実これ以上の幸せはない。


「祈りをこめて」ペンを進めた、とある。

祈りの大切さ、というのを、あらためて感じます。

自分もブログ記事で、宗教に関する自分の考えなどを書いたりしているけれども、これを書く際に「祈りをこめて」書いているだろうか。

そもそも、書く前に、祈りの時間を持ち、祈ったのちに書く習慣があるだろうか。と自らに問うたときに、

そうして書くこともある。けれども、習慣にまでは至っていないと言わざるを得ない。

真摯さにおいて、自分の考えを述べる際の覚悟、責任感の自覚において、
神さまの前にきちんと威儀を正して座して、祈る時間を持っているだろうか。と問わねばならない。

そんな風に、この箇所を読んでいて、考えさせられました。

三浦さんが謙虚にも述べている最後の文章も、素晴らしいですね。

「聖書のなかにかくされている、いや、現わされている宝を、自分のものとしてくださる方が、一人でもあるならば、真実これ以上の幸せはない。」

このような謙虚な気持ちでもって、聖なることについて考え、語りたいものだと思います。

 

 

 

 

星の数は地上の砂粒の数より多いそうだが、それらが、一つの法則に従って整然と運行しているということを知っただけで、わたしたちは 謙遜に、創造者なる神の前に、頭を下げねばならないのではないだろうか。

 

 

 

 

 

真の科学者ほど、謙遜に神の意志を自然の中に見るという

 


この世界の広がり、大いなる宇宙の存在、その運行法則の整然さ、そのことへの驚き。

創造主たる神の前に、謙遜に、頭を下げたくなる気持ちになるのが、当然なのではあるまいか。

神仏に対する謙虚なる気持ち、みずからを小さくして、この偉大なる世界の存在に驚きと、畏敬の念を抱く心のうつくしさ。

真の科学者は、自分たちの科学研究の対象たる自然を、知れば知るほどに、そこに神の意志を感じざるを得ないと言って、謙遜にその気持ちをあらわしていますね。

科学というもの、これは宗教と対立するものではなくて、真に科学的な探求を突き抜けていった人は、宗教的なる世界へつながっていることに気付くのでしょう。

 

 

 

 

 

次のことだけはやはり言っておきたい。  
それは、よくいわれることだが、「神」は認識の対象ではなく「信ずる」対象であるということである。


これも大切な論点ですね。それも非常に重要なる、きわめて重要なポイントかと思います。

認識の対象ではなく、信ずる対象である、という三浦綾子さんのことばは正しいと思います。

神とは何か、といって探求していると、それが認識の対象であるかのように勘違いをする、というか、言い換えると、単なる知識のように考え違いをする人間があらわれるから、ということでもあるでしょう。

信ずる、というのも、なにかよくわからないけれども、信ずる、というのではなくて、信仰、信心の気持ちを抱いて向き合う、それが神さまに対する人間の立場なのだ、と考えてみたら、

この「信ずる」にはおのずと、先に述べたように「謙遜な」気持ちというのが必然的に付随するはずですね。あるいは畏敬の念。

そうした謙虚なる、謙遜な気持ち、畏敬の気持ちを抱くこともなく、単に事物を観察して調べるような気持ちでもって、認識の対象素材であるかのように考え違いをしていると、

神とはこれこれ、こういうものではないか。神は何々であるか、どうのこうの、といって、神を理屈でもって論じて、わかった気になって勘違いする人間もあらわれてきかねませんし、現にいるでしょう、そういう人。

これは、認識の対象、あるいは、知識的な、知的なる分析や論理でもって、神を解明し得るという、知に偏った見方ですね。それに陥っていることに、当人がおそらくは気づいていないのでしょう。

知だけでは、神はわかりませんよ。認識の対象としてのみ、理解できると思ったら大間違いだと、わたしは思います。

幸福の科学では、愛・知・反省・発展の四正道があって、知の原理があるけれども、知だけではなく、愛がその前に説かれているし、その前にというか、大前提として、まずは信仰がないと、正しい愛の在り方も、正しい知の在り方もわからない、ということが教えてもらえますからね。

神仏に対する正しい信仰の立場、信仰の思い、それは先にも述べたように、謙虚なる、謙遜なる態度をともなった、神仏を敬ってやまない、そうして自らの小ささを知って、神さまの前に、素直に、正直に、誠実に、そして従順な思い、赤心でもって座る、そうした心持ですね。

そうした信仰心あっての知であり、認識でなければ、それこそ意味が無い。

哲学などは、認識を重視するし、知的な理解ですね。けれども、神仏への尊崇の念の無い哲学者の知は、その認識は、いかほど真実の世界への洞察からはかけ離れているか、それを見ればいいでしょう。

神智学というのもあるけれども、これは神の知、神を知ること、あるいは神の叡智を知ること、理解すること、といってもいいけれども、それが単に知識的な理解さえできればいいのだ、と捉えているのなら、その人の神智学理解は、浅い、というか、誤謬に陥っているわけですからね。
神智学であっても、宇宙の創造主に対する尊崇の念、畏敬の念の大切さは当然教えているものであるし、単に理屈だけの理解、頭だけの理解で神仏をわかることが出来る、などと教えてはいないはずですから。


ということで、

 

 

 

 

 

「神」は認識の対象ではなく「信ずる」対象であるということである。

 


この重要ポイントは絶対に外さずに、しっかりと掴んでおきたいところですね。

謙虚なる心があるかどうか。神さまの前に、素直に、正直に、裸の心でもって向き合い、そしてまた、神の命に対して、従順な思いがあるかどうか。

「君よ、涙の河を渡れ」(幸福の科学の会内経典)でも、上にあげたような心のありようの大切さを、項目別に教わることが出来ますが、従順、という気持ちがとても重要なんですよね。

これに反発するようであっては、神仏の教えに素直にしたがう気持ちがあるとは言えないな、とわたしは思うんですけどね。
自分の自我を優先して、反発する心があると、従順にはなれないし、従順かどうか、というチェックポイントで赤点になることでしょう。
だからこの、従順さ、というのは、とても大事なポイントかと思います。

神仏の教えを教わって、それを素直に受け止めて、従順にしたがって、今日から自分の過ちを正すべく精進します、という殊勝な気持ちがあるかどうか、ですね。

「従順」という心構えについて、自分のブログを検索してみたら、以下のような記事がヒットしたので、自分でも読み返してみようかと思います。