屁理屈を言う人間について 【追記あり】 | LEO幸福人生のすすめ

LEO幸福人生のすすめ

幸福の科学一信者のブログです。
幸福の科学での学びを中心として、
読んだ本や、観た映画の感想などを書いています。
面白くて~わかりやすく、ためにもなるブログを目指しています!

屁理屈を言う男の特徴。

女性に聞いたアンケートというのがあって、見てみたら、なかなか興味深い解答が多くて、なるほどとうなずいてしまった。

きわめて屁理屈の多い人間がときどきいるので、なぜそこまで屁理屈ならべて悦に入っていられるんだろうか、と不思議に思い、ちょっと考えてみたんですけどね。
だいぶ以前に議論したことのある、とある人物を見ても思ったんですが、きわめて屁理屈が多いんですよね。ハッキリ言えば、魂の出自が特殊な世界なんだろうなー、という印象を多くの人が抱いていたんですが、まぁ屁理屈人間といった感じ。

屁理屈はなぜいけないのか。

屁理屈というのは、理屈に見せかけて、実際は理屈としては成り立っていないエセ論理なんだけれども、それをいかにももっともらしく、偽物の論理もどきで周囲をダマすというか、詭弁で説得してしまおうという狡賢さに支えられた、まさにニセ論理、詭弁なんですよね。

まっとうな論理でもって切り返してみれば、そうした屁理屈や詭弁が、いかに途中で論理のすり替えがあったり、論点ずらしや誤魔化しによって人を欺こうとしているかは歴然なんですが、

当人は、そのエセ論理をきわめて論理的な思考だと勘違いしていたりするし、自信満々でもあるんですよね。実際は正当な論理を駆使できていないという意味で、頭が悪いんですけどね。当人は屁理屈を編み出している自分を、賢いと思っていたりする。

論理的な思考が出来る人は、その論理的思考が周囲の人に説得力をもつほどに、一目置かれたり、敬意を持たれたりするものですが、
エセ論理たる、論理もどきの誤魔化しである屁理屈の常習者は、これは周囲から疎んじられ、嫌われることが多いでしょう。屁理屈屋であって、人から好かれるということはまずない、と言っていいでしょうね。

そしてまた、人から好かれる人間は、人に対して愛を与えている人、人を愛する人は愛されるものだし、愛される者は愛深き人間であるものだ、というテーゼから考えると、

人から嫌われるというのは、やはりどこかに問題がある、と考えるべきなのではないか。
屁理屈や詭弁を並べる人は、その特徴が周囲の人に歴然であって、上のアンケートのように、屁理屈を言う男の特徴は? という問いに対して、女性たちが「こういうところがイヤ」と答えているので、参考にすべき点が多々あり、という感想を抱きました。


言い訳をする、という特徴があるそうです。

これはなぜかと考えるに、屁理屈を言う人間というのは、潔さが無いんだろうな、という印象が強いですね。私の体験上。

それは自分の間違いだ、責任だ、ミスだ、すまん! といって、潔く自分の責任を受けとめる、そういう覚悟がないんでしょう。
潔くない、責任を受け取める覚悟がない、度量が無い。そういう男らしさの無いところから、言い訳をする、ごまかす、そのために屁理屈を言うとか、そういう傾向が出てくるのではあるまいか。責任逃れのための言い訳癖ですね。

潔く受け取める覚悟や責任感があったら、言い訳をしたり、責任逃れをしたり責任転嫁の誤魔化しをする必要はないですからね。

自分の責任、責任を受け止める覚悟、度量、潔さが無い。こういう根本の性格が、言い訳や屁理屈に走るようになる原因ではあるまいか。
そんな風に、わたしは洞察します。

言い訳をすることが多い。これが屁理屈屋の特徴の一つ。


それからまた、否定的な態度が多い、とのこと。そういう答えもあったそうですが、
これも同じく、ポジティブで肯定的な返事が出来ない、というのは、積極的な意見を言った場合に、あとで責任を取らされるのが嫌なんじゃないかなー。
あの時こう言ったじゃないの、勧めたじゃないの! といって、自分の意見の責任を取らされるのが嫌なのかもしれない。
だから前もって防衛線を張って、ああでもない、こうでもない、といって否定的でマイナス発想の悲観的な言葉が多くなるのではないかなぁ。
あとは曖昧な返答をする、明確な結論を言わない、とかね。これも同じく、明確な意見を言うことで責任が発生するのが嫌なんですよ。だから曖昧表現にして、あとで言い逃れられるような言い方をする。
これは、決断力が無い、優柔不断である、といった傾向にもつながるかと思いますけどね。

それを当人は、自分は慎重な性格なのであり、結論を急がない人間なのだといって、自己正当化している可能性があるけれど、実際は単なる、臆病な性格、潔くない、卑怯である、言い逃れる癖があるだけ、なのかもしれません。
いわゆる、男らしい男、潔いタイプの男性の特徴と比べてみると、いかにそれとは対極の傾向であるかというのが、よくわかるでしょう。
自分の発言に責任を持つ、決断力がある、潔い、勇気がある、こういう心構えがある男であったら、否定的な態度が多い、とか、悲観的な発想ばかりする、ということはないでしょう。


自分を正当化する、という特徴もある、との指摘があります。
これも同じところにつながっていきますね。

自分の間違いを潔く認めない、ということは、間違いを間違いと認めないためには、屁理屈を並べてごまかせばいい、あるいは自分を正当化するための誤魔化し理屈というか、言い訳ですね、それを捻出すればいいわけで、
こういうところにすべて連動している特徴が見受けられるわけですよ。

屁理屈を並べる、言い訳をする、論点をずらす、自己正当化の詭弁を弄する。
これらはみな、自分の間違いやミス、考え違いを潔く認めない、それだけの覚悟がない、卑怯というか、覚悟が足らない、自己責任の態度が欠如している、という根本性格に由来しているのではないか。そうわたしは洞察しますね。


幸福の科学では、自己責任の原則、いさぎよく自分の責任を認めることの大切さ、を教えてくれていますが、自分の責任を認めないで、言い訳をする、自己正当化の屁理屈を言う、という態度はこれとは真逆の在り方であることがわかります。


アンケートはさらに厳しく辛辣です。

屁理屈を言う男は、自分のことを頭がいいと思っているけれども、実は頭がよくない、賢くない、頭のいいふりをしているだけ、なんていう指摘もあります。

これは厳しいけれども、当たっていますね。
屁理屈というのは、先にも指摘したように、正当な論理に見えて実はそうではない。論理のように見せかけているけれども、実際は論理として成立していない、誤魔化しのエセ論理にすぎない。
だから、屁理屈、と言われるわけですが、これは理屈に見えて、実際は理屈としては成立していないんですよね。

本当の意味での正しい理屈、論理として成立している理、というのは、これは原因結果の連鎖がきちんと正しく成立しているものを喝破しているもの、と見るべきで、
世界の真相、原因結果の論理を正しく論じられてこその論理であり、理であり、理屈なんですよ。

それを正しく見つめない。たとえば自分の間違いや過ちを、正直に認めないで、いやそれは〇〇が原因で、誰それが原因で、とかいって、自己責任から逃れて、別のものに責任転嫁をするとかですね、そういう言い逃れ、誤魔化し、本当の原因を眩ませて、別のニセモノの原因のせいに見せかけて、そう相手を欺き説得することで、自己責任から逃れる態度、こういうところに、理ならざるニセモノの理屈、すなわち、屁理屈や言い訳、言い逃れ、誤魔化し行為というものは存在するわけで、

そういう言い訳や誤魔化しは、それが嘘であることが女性たちには喝破されてしまうんでしょうね。

だから、そういう屁理屈屋は、実は、賢くすらない、と言われてしまうわけです。説得力が無いんですね。誤魔化しだから、エセだから、説得力が無い。

そうそう騙せるものではないし、誤魔化しはずっとは通じない、というところに、人間社会の健全さというか、人はバカにしたものじゃないんだな、という感想をわたしは抱きますけどね。
詭弁や言い訳、誤魔化し、屁理屈、そういったものは世間一般的に言っても嫌われるのは、そこには本当のものがない、真実がない、嘘がある、誤魔化しがある、ということでしょう。


次いで指摘されているのは、屁理屈屋というのは、プライドが高い、というのもあります。

これもわかりますね。なるほどです。
なぜプライドが高いのか。

それは自分が編み出した、そのいかにももっともらしい屁理屈、一見論理のように見えるもっともらしい理屈を立てている自分を、賢いのだ自分は、といって自惚れているのでしょう。
そういう意味で、変なプライドを持っている、プライドが高くなってしまっているのではないかなぁ、とわたしは分析します。

実際は、そうした屁理屈はエセにすぎないので、真実を洞察できていない、誤魔化しのニセ論理、論理もどきの誤魔化しに過ぎないので、別に、頭がよくもないし、むしろ屁理屈に逃げているだけ、という意味で、わたしから見たら、頭がいいどころか、間違った方向に頭が働いているだけの偏屈屋にしか見えませんけどね。
これは本当の意味での頭の良さではないので、なのに当人は、他の人が考えてもいない、そうした独創的な屁理屈を編み出せる自分を、賢い、頭がいい、と勘違いしているんですよね、おそらくは。
だからこそ、プライドが高い。高いけれども、高いプライドを持つに値するほどの中身は実は無い。
それを女性たちには見抜かれてしまっていて、屁理屈屋なだけなのにプライドだけは一丁前、みたいに思われてしまうのでしょう。


器が小さい、という特徴もあげられています。なかなか手厳しいです。

これも先に指摘したように、自分の責任として受け止める潔さが無い、言い逃れる傾向があるのでは、という特徴と並べてみたら、容易にその関連性がわかるでしょう。

潔く受け止める度胸、度量が無いので、言い訳をする → 器が小さいな、こいつ、と見られても仕方がありませんね。


口が達者、という特徴もあるそうです。

これは言い逃れや、自己責任から回避する思いが強い人物ほど、いっそう多くの屁理屈を並べて、大いに胡麻化すというか、そこに高いプライドを持っているものだから、多弁になったりもするのかもしれませんね。中身の無い、真実の無い詭弁や屁理屈、エセ論理を多用している人間、いないでしょうか?


あげ足をとりたがる。

ああ、この特徴は、屁理屈屋に顕著な特徴ですね。
これは、まっとうな議論や、正当な主張をひっくり返したがる屁理屈屋、偏屈人間ならではの特徴です。
まっとうな議論をひっくり返すためには、正面からの否定は難しいですよね。まっとうな主張であるほど、正攻法で論理をしっかり立てて論じているものなので。

屁理屈屋は、屁理屈が好きで、それは論理ならざるエセ論理であり、要するに、まっとうな論理を否定するところに立ち位置があって、自己主張の立脚点があるので、正当な主張をひっくり返すのが大好きなんですよ。というか、それが彼らの生きがいというか。

で、正当な論理をひっくり返すためには、その論拠のちょっとした綻びですね、論の不十分なところや、脇の隙間みたいなところを突っつくことで崩そう、と企むわけです。

正当な主張そのものは、まっこう勝負で否定するのが難しいので、ちょっとした例外を持ち出して、この点からすると当てはまらない、だとか、こういう事例を考えると、先の主張は成立しない、とかいう細かな枝葉の議論に持ち込んで、そこから幹の部分を否定してしまおうと企むわけです。

これが、あげ足とり、という行為の本質でしょうね。

あげ足を取ることでもって、すべてをひっくり返そうとする、それが出来る、出来ていると思いあがっている。
だから詭弁家や屁理屈屋かどうかを見抜くには、あげ足を取るような議論の仕方をよくするな、という点を見ていると、容易に見抜くことが出来ますよ。
正々堂々の議論ではなくて、枝葉の事例に走ったり、ちょっとした言葉遣いだとか、そういう細かなところの解釈論などに走って、実際は大きな論理のところでの反論は出来ていないじゃん、というような論法をよく使う人ね。あげ足をとることで議論をしているつもりでいるんだな、この人は、というタイプは、たいていの場合、単なる詭弁家であったり、偏屈な主張の多い人物に過ぎないことが多いですよ。そのあたりを観察してみるといいです。


わがまま、という指摘もあります。

屁理屈屋の話ですが、プライドが高くて、自分の屁理屈を言いたがるわけですから、自分の主張に自信があって、それを押し通そうとするのでしょう。
自分勝手でワガママという性格にもつながるかもしれませんね。



自信たっぷり、という指摘。

これもすでに何度も述べたように、自分の屁理屈に自信を持っているわけですから、自信過剰なタイプが多いのはうなずけるでしょう。


【以下、11/26に追記】


屁理屈を言う人間について

とあるサイトでは、10の特徴をあげます、といって、以下の10項目があげられていました。
 

  1. 悪いところを認めない
  2. 謝ることが苦手
  3. 人の話を聞いていない
  4. プライドが高い
  5. 皮肉をよく言う
  6. 否定的な言葉ばかり使う
  7. 器が小さい
  8. 自分を正当化しがち
  9. 自分は頭がいいと思い込んでいる
  10. 他人に認めて欲しいと思っている



上記本文で取り上げた特徴も多数ふくまれていますが、まったく触れられてなかった項目もあります。
ので、追記しておきます。


1,2、などは、言い訳をする、という特徴に重なる部分かと思いますが、

自分の非を認めない、偏屈な性格であり、自分のことを頭がいいと思っているので、自分の悪いところを認めない、謝らない、という風にして、これらの特徴があらわれるのでしょう。

基本にあるのは、自分の偏屈な屁理屈癖、それを編み出す自分は「頭がいい」という自惚れですね。ここに変に高いプライドを持っているので、自分の過ちを認めない、謝らない、ということかと思います。

3の、人の話を聞いていない、というのも、これまた高いプライドが、そうさせているのでしょう。
説明文にもあるように、自分の考えは優れており価値があるので、他人は自分の話を聞くべきだ、と思いあがっている節がある。
この高慢は、裏返すと、他人の話には価値が無い、ので聞かない。見下しているので、聞く耳を持っていない、うわの空、という態度に出がち。
といった特徴として現れるのでしょう。

自分の考えには価値がある、という自信過剰というかプライドの高さは、一方的に自分の考えを述べたがる、という癖にもつながるので、たとえばブログやツイッターなどの発信メディアを使って、書きまくる、発信しまくる、という傾向にもつながるかもしれません。
この場合に、世間の反応というのは正直なものなので、逆に、その人の発信内容に、魅力が無い、価値が無い、という判定がなされると、発信はしていても、誰からも顧みられない、という現象が起こるかもしれません。
こういう体験をして、みずからの高慢と見識不足への反省が起きればいいんですけどね。そして謙虚さを取り戻すことが大切なんですけどね。


5の、皮肉をよく言う、というのも、偏屈な屁理屈屋に顕著な特徴ですね。たしかにその通り。
『斜に構えてアイロニカルなことを言える自分はかっこいいと勘違いをしている』という分析を、この記事の著者は述べています。なるほど、納得の分析です。

屁理屈というのがまさにそうした、ものごとを真正面から捉えることを避け、あえて斜めから見たり、変わった視点から物事を見て、そうした偏った視点からの一石を投じたい、というような傾向性そのものなので、斜に構えてアイロニカルなことを言う自分に酔っている、のかもしれません。

けれども、そうしたことばかりやり続けていると、自分の性格・傾向性そのものが、斜に構えた状態で固定されてしまうので、固定された屁理屈人間になってしまうと思うんですけれどね、そんな生き方ばかりをしていると。

6の、否定的な言葉ばかりを使う、というのも、前記事では、悲観的なモノの見方であるとか、責任を取りたくない及び腰の性格ゆえに、そうした否定的な言動が増えるのではないか、と考察しましたが、

否定のための否定をすることで、そのもとにある他者の意見にマウンティングして、自分の考えの方が上である、という自己顕示をしたいのかもしれません。
誰かの意見に茶々を入れること、否定的な見解を述べることで、最初の意見の足らざるを指摘することによって、自分はさらに広く緻密な思考をしているんですよ、という自己アピールをしたいのかもしれません。



このあたりが、パート2の考察として、付記できるかなーと思い、書いてみました。


【11/26の追記、ここまで】



以上、屁理屈屋について、いろいろと特徴を並べて考察しましたが、

こうした屁理屈屋にならないためには、では、どうしたらいいのか。



真実に素直にしたがう、であるとか、潔く自分の責任を認める、そういった態度を身に着けることが大切なんでしょうね。

真実に生きる、正直に生きる、ごまかさない。

原因と結果の連鎖を正しく読み解く、受け入れる、見抜く洞察力を身につける。論理的思考を身につける。

まちがった思考に陥らないように、正しい論理の使い方というものをよく学ぶ、身に着ける、誠実な思考。

自分に対して、他の人に対して、世の中に対して、神仏に対して、誠実に生きる、うそを言わない、ごまかさない、逃げない、いさぎよく自己責任を認める、覚悟をもって生きる。

などなど、正しい生き方というものに従うほどに、間違った心からは離れられるでしょう。

誤魔化しの論理や、屁理屈、詭弁、エセ論理に自己満足する。
そうした悪しき傾向性に陥らないように、正しい思考力、モノの考え方を身に着けたいものですね。