この世には、なぜ多くの苦しみがあるのでしょうか | LEO幸福人生のすすめ

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 ~シルバーバーチ 感想16~
 
 

牧師「この世には、なぜ多くの苦しみがあるのでしょうか。」

シルバーバーチ「大霊の摂理は、苦しみを通してしか悟ることはできません。苦しみという厳しい試練を経て初めて、あなた方の世界を支配している大霊の摂理を理解することができるのです。」


なぜ、こんなに多くの苦しみに出合うのか、出合わないといけないのか、といって、わたしたち人間は疑問に思うことがある。

自分の出合う苦しみに限らず、世の中を見渡しては、理不尽な苦しみに遭っていたり、不幸な出来事に遭遇して苦しんでいる人を見ては、なおさら、そう思う。

シルバーバーチは、苦しみを通すことでしか学ぶことが出来ない、という説明をしてくれている。
苦しみを通さずして学ぶことが出来ればいいのだろうが、多くの人は、苦しみという形で自分に降りかかってこないと、そこに学ぶべき大切なことがある、ということにすら気づかないことがあまりにも多いのかもしれない。

病気になって、はじめて健康のありがたさを知る。愛する人を死によって失うとき、深く悲しむことになるが、その悲しみの深さは愛の深さを知ることにつながっているのかもしれない。

苦しみは、苦しみのために有るのではない。そこから真実を学ぶためにこそ、そういうものが現れてきている、ということを宗教や神秘学では教えてくれているけれど、

苦しみのみに目を向けて不満を抱くようになると、そんな苦しみばかりの世の中になっているのがおかしい、神は何をしているのか、といって、それを神のせいであるかの如く言う人もいる。

最初にあったような質問「なぜ、世の中にはこのような苦しみがあるのか」という疑問をぶつける際に、それを「神さまのせい」であるかのように言って、そうした不幸を放置している神という存在を自分は信じたくない! と主張する人も、よく見受けられると思う。

理不尽だ。善因善果が成立していない。悪人が罪から逃れ、善人が犠牲になったりしている、この理不尽な世界、といって怒る人もいる。
これに対して、シルバーバーチはどのような返答をしているかというと、

 

地上人生で起きるすべてのことは、いつの日か必ず帳尻が合うようになっています。いつかは自分で 天秤 を手にして、バランスを調節する日がまいります。


自分が蒔いた種は、自分で刈り取らねばならない、というカルマの法則は完璧に行われており、善人が苦しみ続けたり、悪人が罪から逃れられたり、などということは有り得ない。神の摂理は完璧である、と至るところで教えてくれています。

天国と地獄の仕組みを知ってみれば、たとえ極悪非道の所業を地上で行なって、最後まで警察等につかまることなく、上手く逃げおおせたかのように見える犯罪者がいたとしても、あの世に帰ったら、そのままでは済まない、ということを私たちは知っている。
犯した罪に相応した、深い地獄に堕ちて、魂が根本から悔い改めるようになるまでの、厳しい試練の時が待っている。

その反対に、善なる人生を生きたけれども、思ったほどに報われることなく、厳しく、つらく苦しい人生を生きた人がいたとする。
けれども、心正しく善に生きたのならば、あの世で帰る世界は天国であるだろうし、そこでの幸福な生活は、地上時代の悩みや苦しみを払拭して余りあるほどの、幸福感に満たされたものとなるだろうし、十分に埋め合わせてもらえる、というか、まっとうな生を生きたことの御褒美はある、と信じてよいと思う。
 

軽い罰で済んでいる人がいるかにお考えのようですが、そういうことはありません。あなたは魂を見抜くことができないために、そう思うのです。


あの世をも合わせて、善因善果、悪因悪果が成立している世界なのだ、ということを信じられるかどうか、ということ。

あの世でどうなっているかの追跡調査が出来ていないし、自分自身の運命も、実際に死んでみてどうなるかを実体験してみないとわからないので、私たちは、この地上世界の運命のみを見て、神の正義やこの世の理不尽などといって勝手に考察しているが、それはすべてが見えているわけではないがゆえの、不完全な考察に過ぎないのでは?

という自己反省が要る、ということでもありましょう。

この世の理不尽がまかり通っている、と文句を言うが、本当にまかり通っているのだろうか? それは一時的な、この地上のわずか数年、10数年の限定期間だけを区切って、そこだけを見て、まかり通っていると断じているだけであって、その後どうなるかを見れていないのではないか。

いや、それでも屁理屈屋は、わずか数年、わずか1日でも、悪事が実行されるのはおかしい!といって、神に文句を言う人もあるかもしれない。
こういう人はまるで、映画「マイノリティ・リポート」のように、悪が行われるそれ以前から、神にはすべてお見通しなのだから、それが実行されるのをその時点で阻止すべきだ!と言っているかのようにも思えてくる。
しかし、どんな不幸なことであっても、まったくそれが起こらないように、ただの一つも苦しいこと悲しいことが起こらないようにすべきなのだ、と主張するその人の勝手な観念は、神が現にそうしている神の摂理を否定して、自分が主張するその原理をこそ優先させて実行すべきだといって、神より自分を上位に置いているに等しい、そうした傲慢さの中にある、と言えないだろうか。

まるで、神は、自分が考えるような行動をするべきだ、自分のアイデアを採用してそれに従うべきだ、と言っているようなものだ。

ヨブが文句を言った時に、お前に何がわかっているのか、といって神からのお叱りを受けたという故事があるように、
すべて見渡しているわけでもない人間が、神ならこうすべきだ、ああすべきだ、それをやってこその神だ、などといって神定義をしている時点で、その人の信仰観、世界の理解の仕方に、問題があるのでは? という指摘も出来るのではあるまいか。

あまりにも傲慢になってしまうと、この世の不幸や理不尽を見るだけで、それを世界の根源である神のせいにする、という暴挙に出る人がいるけれども、これは暴挙であり、傲慢さであり、神の摂理がどうなっているのかの仕組みを知ってもいないのに、それにケチをつけている愚かさでもある、のかもしれません。

神の摂理は完全である。完璧である。蒔いた種は蒔いた当人が刈り取らねばならぬ。自己責任の原則は、宇宙の理法によって過たず実行され、因果の理法は完結している。
その実際の姿をすべて見ることが出来る人がいたならば、ああ、本当にその通りなんだな、理不尽が放置されていると自分は勘違いしていたが、そんなことはなかった。理不尽は許されていなかった。悪が放置されていたわけではなかった。不幸が不幸として許容されていたわけではなかったのだ。そこには深い深い、当時の自分では気づいてもいなかった、深いしかるべき理由があったのだ。

といって、納得できるようになる時が来るのかもしれない。

理不尽がまかり通っているから、神を信じない、というのは間違った思考と結論だと、わたしは思う。

その理不尽に見える事象の奥には、何か隠された深い理由があるに違いない。そこにこそ、神の叡智が実は秘められていて、そのことを今の自分はまだ理解が出来ないし、知るとっかかりを得ることすら出来ないほどに、まだまだ未熟な魂なのかもしれない。
しかして、神の摂理は完全であり、完璧である、ということを、信じよう。理解できる時が来るその時までは、神の愛と叡智に信頼して、信仰心を持って生きていこう。

こういった正反対の考え方を取ることだって可能なはずであるし、わたしはそのように考えて生きていこうと思う者であります。

 

地上に苦難がなければ、人間は正していくべきものへ注意を向けることができません。すべての苦しみや痛みや邪悪は、大霊の分霊であるあなた方人間が、いかにしてそれを克服していくかを学ぶためにあるのです。 もしも苦難を乗り越えるための努力を怠っているとしたら、あなた方を地上に誕生させた大霊の意図を理解していないことになります。宇宙の始まりから終わりまで、すべてを法則によって支配している大霊に従わずに、誰が文句を言うことができるでしょう。


知らないのに文句を言ってはいけないし、間違った推論によって、神の存在そのものを否定するほどの愚考をするほど、悲しい過ちは無いのかもしれません。