ドストエフスキー『悪霊』における、神と人間に関する議論 | LEO幸福人生のすすめ

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「ねえ、いつか君が説明してくれたことがあるじゃありませんか、確か二度までもね。もし君が自殺したら、君はそのまま神になる、といったようなことでしたねえ?」

「ああ、僕は神になるんだ。」


登場人物二人による、上のような会話がある。

最初のセリフは、ピョートル・ステパノヴィチの質問。
ピョートルは、政府転覆をたくらむ秘密結社のリーダー。

対する答えを述べているのは、キリーロフという人物。

とある事件をめぐって、二人は真剣な会話をしている場面なんですけれど、そこで上のような奇妙な神学議論めいたことを話すわけです。

キリーロフが述べているのは「人神論」と言われる考えであって、神がもし存在しなければ、人間が一切の判定者である。神がいないのなら、人間が神になる、なれるはずだ。すなわち人神!
とでもいった、奇妙な観念に憑りつかれた男の言葉なんですね。
(※ニーチェはこのキリーロフという登場人物に強い興味を抱いていたという。思想的な親近性か)

とあるドストエフスキー解説者は、このキリーロフのことを「いわば信仰者にかぎりなく近い無神論者」と説明しています。
信仰者にかぎりなく近い無神論者とは、どういうことだろう。

 

 

「神は必要だ、だから存在すべきだ。」(←キリーロフ)
「ふん、それで結構じゃありませんか。」(←ピョートル)
「けれど、神は存在しない、かつ存在し得ないということを僕は確かに知ってるんだ。」
「その方がいっそう正確ですな。」
「一体君には分からないのか? こんな二重の思想を持っている人間はとうてい生きてゆくわけに行かないんだ。」


キリーロフは、神は必要、存在すべきだ、と言いながら、次のセリフでは、けれど神は存在しない、存在し得ない、と言っている。

神はいるのか、いないのか、という懐疑主義的な疑義を提出しつつ、その実、本音としては明らかに神否定論者の立場に堕している人物にしか見えない。
神に関する高次の思考、観念において、正反対の考えのどっちつかずという混乱を呈している。
ある時は、信じることもあるが、すぐ次の瞬間には疑いを抱いてしまう、そういう状態の人もこれに似ているのかもしれません。

キリーロフはそうした自分を指して、こんな二重の思想を持っている人間は、とうてい生きてゆくわけにはいかない、と言って、自分の矛盾に気づいている。

キリーロフは、神に関しての観念をあれこれ思考して、神はいるのかいないのか、頭の中で考えてはいるらしい。そういう意味では、神や宗教について思考はしているのだけれど、心においては信じ切れていない、信じていないように、読んでいて感じられる。
「罪と罰」のラスコーリニコフのように、神や神の教えというのは、人間が作り上げた虚構なのかもしれない、という疑いにも揺さぶられる彼らは、確固とした信仰を抱けていない、という意味で、懐疑主義者であり、信じきることの出来ない、疑り深い人間ということもできる。
「カラマーゾフの兄弟」のイワンもこれと同じ系譜につらなる人物であって、ドストエフスキーはその作品によく、こうした無神論者というか懐疑主義の人物を登場させています。


キリーロフは、この作品の主人公スタヴローギンのことも、次のように評しています。

 

 

「スタヴローギンもやはり思想にのまれたんだ。」キリーロフは、気むずかしげに部屋の中を歩きまわりながら、相手の言葉には気もつかないで、こう言った。
「え?」とピョートル・ステパノヴィチは耳をそばだてた。「どんな思想に? あの人は君に何か言いましたか?」
「いや、僕が自分で想像したのさ。スタヴローギンは、たとえ信仰を持っていても、自分が信仰を持っていることを信じないし、またかりに信仰を持っていなかったら、その信仰を持ってないことを信じない男だ。」


信仰を持っていても、自分が信仰を持っていることを信じない。
あるいは、信仰を持っていなかったとしても、それを持っていないということを信じない。

などという、わかりにくい評を述べていますが、

懐疑主義者というのは、なにもかにもが、ハッキリと確定できるような根拠が無い、証拠がないといって、有るかもしれないし、無いかもしれない、と言って、明確な結論を出すのを躊躇し、決断をすることを先のばしにして、どちらとも決めかねる、というか、どちらの良いところも取りたいが、気に入らないところは拒否したい、といった、自己都合の優柔不断な精神傾向があるのではないか、と私は思うのですけどね。

そして以前にも書いたけれども、懐疑主義者は、自分のその懐疑的な立場や考え方自体をも、懐疑せざるを得ない、という悲しい立場に陥らざるを得ない、というポイントがありますね。
あれこれ、あーでもない、こうでもない、と思考があちこちに行ったり来たりした結果、よしこれで行こう、信じよう、と思ったとしても、その決意を継続できない。でも、違うかもしれない、逆にしよう、信じるのをやめよう、と考えをまた変える。しかしその変更にも確信が持てない。

自分の結論にも確信が持てない、そもそも決断が出来ない、というところに、そもそもの根本原因があるのではないか? という仮定をも想像したくなるくらいですが。

決断のできない優柔不断、確固たる人生観を決意できない臆病さ、人生の根本思想でさえ、天秤にかけて、こちらにするか、あちらにするか、といって計ろうとする慎重居士的な性格の根元にあるのは何か。
といったら、大本にあるのは実は単なる、過剰なる自己愛と自己保身にすぎないのではないか、という気さえしてきます。

神の前に、裸の自分になって身を投げ出す、という決意を持てないままに、それ以前の段階であれこれ迷っては、信仰への一歩を踏み出せず、その手前で踏みとどまって、言葉や観念をめぐっての堂々巡りをしているだけの姿は、決意する勇気の無さ、というものを感じざるを得ませんけれども。
こういう立場の考えの人間が、否定者側にまわると、相当、屁理屈をこねて否定論を述べる人間になりかねないので、要注意、と思うんですけどね。

 

 

「黙っててくれたまえ、君には何も分からないんだ。もし神がないとすれば、その時は僕が神なんだ。」
「それそれ、僕は君の説の中で、その点がどうしても腑に落ちないんですよ、なぜ君が神なんでしょう?」
「もし神があれば、神の意志がすべてだ。したがって、僕も神の意志から一歩も出られないわけだ。ところが、神がないとすれば、もう僕の意志がすべてだ、したがって、僕は我意を主張する義務があるわけだ。」


神がいるならば、神の意志がすべてだ。ならば、その意志にしたがおう、とキリーロフは言っているように聞こえます。
しかして、次いですぐ次のことばで、ところが神がないとすれば、

といって、その場合は、自分の意志がすべてだ! と言っている。自分の意志とは「我意」ですね。
キリーロフも使っている言葉の通り、自分の我意がすべてとなるので、その我意を主張することが許される、それは義務である!とまでキリーロフは言い切っていて、

このキリーロフの主張は、結局、無神論の立場に立った、自分一個のエゴこそがすべて! という主張と、本質的には大差のない意見にすぎないものとなってしまう。

哲学的な屁理屈を並べているけれども、すべてを統べる神が存在しないのなら、個々の人間の意志こそがすべてのすべてであり、といって、個々人の意志の絶対性を主張しているだけに過ぎなくなっているだけのこと。

 

その命題の証明のためにこそ、自分はみずから意志し、死なねばならない。自分の意志によって、ただそのためにのみ死ぬことによって、そのこと(神の不在と人間が神であること)が証明されるのだ! というキリーロフの奇妙な主張。

 

 

「僕は自分の不信を宣言する義務がある。」キリーロフは部屋の中を歩きまわった。「僕にとっては、『神はなし』というより以上に高遠な思想は、ほかにないのだ。僕の味方は人類の歴史だ。人間は自殺しないで暮らすために、神を考え出すことばかりしてきたものだ。従来の世界史は、これだけのことだったのだ。ところが、僕は全世界史中のただ一人、初めて神を考え出すことを拒否したのだ。人類はこれを知って、永久に記憶しなければならない。」


ドストエフスキーは、キリーロフなる登場人物に、なぜこのような奇妙な主張をさせたのだろう? と思う人がほとんどかもしれませんが、
神学や哲学を、妙な観念世界だけの思考で暴走させると、そして、その思考者がエゴイスティックで変人みたいなタイプであって、ひとりよがりの妄想思考をするようなタイプだと、上のようなわけのわからない考えに陥ることって、そんなに不思議はないというか、珍しくはないようにも思うんですよね。

神学上の屁理屈を、自己正当化の詭弁に使うタイプには、上のようなことを言う人、しばしばいるのではないでしょうかね。

神はなし、と言いながら、人間は神を考え出すことばかりしてきた、といって、神は単なる人間の思考の産物のように言って、実存在としての神などはいない、という無神論を主張している。
神やあの世、とかいった事柄は、人間が作り出した思考の産物にすぎず、実在する本当のことではない、それは虚構であり、空想にすぎない、といって否定する人、いるでしょう。

こういう考え方の行きつく先がどうなるのか、ということを、ドストエフスキーは具体的な人物の発言と、その末路を描くことで、示してくれている、ということも可能かもしれません。

キリーロフや、イワン・カラマーゾフ、それからラスコーリニコフの神観念、無神論的懐疑主義を、決して肯定的に捉えて書いているわけではないことは、彼らの行く末を見ればわかると私は思うんですけどね。

 

 

 

 

「僕は三年の間、自分の神の属性を求めて、やっとこのごろそれを発見した。僕の神の属性は、——ほかでもない 我意 だ! これこそ僕が最高の意味において自分の独立不羈 と新しい恐るべき自由を示しうる唯一の方法なのだ。実際この自由は恐ろしいものなんだからね。僕は自分の独立不羈と新しい恐るべき自由を示すために、自分で自分を殺すのだ。」

 


キリーロフは、こうした無神論者なので、死後の生などは当然、信じてもいないでしょう。

そして、神がおらず、自分の我意こそが神なのだ、という主張をまっとうするために、みずから死を選ぶ、という行動を選ぶわけです。

死んだあとには、消滅、しかないのだろうから、ということなのか。キリーロフは、自分のその自殺を、どのように利用してくれても構わない、といって、ピョートルとの約束を果たします。

ピョートルは、秘密結社を裏切った密告者シャートフを、集団で謀殺しています。この時点で。
そして、その犯人をキリーロフに代わってもらうために、キリーロフに遺書を書いてもらうんですよね。
その犯行の犯人は自分であると署名まで書いて、キリーロフ本人もそのことをわかっていて、書いている。

なんという奇妙な約束か。異常なる行動か、と思わずにはいられませんが、

この『悪霊』は、実際にあった秘密結社内の殺人をモチーフにして描かれた作品なので、ドストエフスキーが頭の中だけで考えて作り上げた作品、というわけではないんですよね。

秘密結社のリーダーが、仲間達とつるんで、密告者のひとりを謀殺した。それが現実の事件として起きて、ロシアを震撼とさせた、ニュースになった。
しかしその密告うんぬん、というのも、小説を読む限りでは、謀殺者たちの過剰な疑心暗鬼と妄想にすぎず、被害者はそんな計画を実行した可能性があったかどうかも定かではない。ように読めます。

この秘密結社は、社会主義国家の建設をもくろむ政治運動のようなもので、のちのソ連建国の予言めいた内容も述べられていて、実際、ソ連が出来たあとでは、この作品「悪霊」は革命家を揶揄した小説であるとして、禁書にされてしまっていたそうです。

被害者となった人物は、ドストエフスキーの奥さんの実弟、の友人だったそうで、それこそまったく無縁の人間どころか、非常に近い立場にあった人物にまつわる事件だったようです。

ドストエフスキーは、自分の父親を殺される、という経験もしているので、それが「カラマーゾフの兄弟」の父殺し、などのモチーフに転化されているところもあるのでしょうね。

難解なドストエフスキー作品ですが、登場人物たちの議論を深読みするだけでも、実に難しいというか、重要なテーマが盛り込まれていたりして、そこまで読み取るほどの読書をするのは、容易なことではないのでしょうね。
その深さこそが、多くの読者にとって、謎解きならぬ魅力を持っているのかもしれません。