自分の心と、高級霊界からの救い、その関係性 | LEO幸福人生のすすめ

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 ~シルバーバーチ 感想14~

 

 

 

 

すでに下巻からの引用記事に突入して、いくつか書いているけれど、その続き。

自分の心の琴線に触れて、線を引いた文章を引用しつつ、自分の思ったことを書いてみる、というシリーズということで!

 

とにかく冷静で受容的な心を保つことです。そうすれば私たち霊界の者は、あなた方に近づくことができるのです。恐れや悩みや心配の念を心に宿してはいけません。それらは心にモヤを生み出し、私たちが近づくことを困難にしてしまいます。

 


霊的な指導やインスピレーションを受けるには「受け身」の精神状態が必須、というのは、あらゆる瞑想家が述べていることです。

能動的に、なんでもかんでも自分で考えて、自分の考えを主張したい、というような精神状態では、他の意識体からのインスピレーションをキャッチなど出来ない。

もっと受け身の精神状態でないと、受信機能が働かない、というのは、テレビの受信その他の機械を考えても、連想できることですね。

瞑想などで、自分の心を静めていって、自己主張や自己発信の思いを鎮静化していって、受動的な魂状態をつくることが大切。守護・指導霊からの高次のインスピレーションを受けるには、この訓練が大事だといいます。

心を整えて、よい波長を出せるようになった魂の持ち主が、受動状態になっている。そうすると、高級霊も近づきやすく、インスピレーションを降ろせるようになる、ということでしょう。

これに対して、恐れや悩みや心配の念で心が覆われていると、高級霊が近づくのが困難になる、ともあります。
高級霊は近づくのが困難である、その反対に、不成仏霊や地獄霊はおそらく近づきやすくなる、ということだと思います。

これはつらく悲しいというか、厳しい部分だけれども、自分が悩み苦しんでいる時こそ、天使に直接指導でも受けて助けてもらいたい、と願うものですが、残念ながら、苦しみや悩み真っ只中のマイナス波動の状態だと、高級霊の波動とシンクロしないので、つながりにくくなってしまっている。

だからこそ、そのままだとドンドン悩みが深くなって、絶望的なところまで落ち込んでしまう、ということにもなりかねない。そういう悲劇があとを絶たないのかもしれません。
独りよがりの生き方をしている場合は、この危険性がいっそう高くなるのではないでしょうか。

こういう場合であっても、天に見放されているわけではないのだけれど、自分自身が進んで迷いの世界に落ち込んで言っている時には、その心では、直接、高級霊界からのインスピレーションを受けられる状態ではないので、みずからを救うことが困難な時が確かにあるんですよね。

では、どうするのだろう? といったら、他の人を介して、救いの手が伸びてくる、という道が一つにはあるのだと思います。

苦しみのさなかで悶えている人に、直接インスピレーションは下ろせない状態であっても、その人に近しい人物が、心正しく落ち着いた精神状態にあって、かつ、天上界からの指導やインスピレーションを受けられる状態にあったなら、

その近親者に、高級霊界からの導きが臨んで、その人を通して間接的に、さきの苦しみの中にある人へ、天上界よりの救いの言葉が与えられる、ということが、確かにありますよね。

自分で自分を救えないほどの逆境、苦しみの中にある時には、自分を愛してくれている家族であるとか、心から信頼しあってきた親友であるとか、法友のことば、というのが、これに相当するんですよね。心から慕っている先生からの導き、というのもそうだし、サンガに所属していることで、他の人からのアドバイス、導きを受けられる機会はいっそう増すでしょうしね。

人は、いくら優秀であったとしても、自分ひとりの才覚や知力に驕ってはならないのであって、日ごろから、他の人とあたたかな信頼関係を築くことが、自己鍛錬に勝るとも劣らないほどの重要性を持っていることは、そうした危機の時にこそわかりますよ。

天涯孤独で、誰にも頼ることが出来ない、知人や親友や愛する家族がいない、となると、自分一個が深い迷いの中に陥ったときに、天上界はどうやって、その人を導くことが出来るだろうか。

その人自身の心が、悩みや心配の思いでマイナスの思いばかりで満たされている状態で、天から棚ぼたのように素晴らしいひらめきが、突如として降ってくる、なんてことはありませんし、あったとしても、マイナスの心の状態ではキャッチできないのではあるまいか。

他の人を通してのアドバイスであっても、同じく、そう簡単に素直に受け止められはしない、といえばそうだけれども、しかして生の声でもって友人や家族が語りかけ、何度も熱意をもって話しかけるうちには、少しは耳を傾けて、自分の考えをあらためよう、という気持ちに変わってくるかもしれません。

苦しみの中から救われた時って、だいたい、こういう経過をたどったことが多いのではないでしょうか。
わたし自身は、上のような経緯で救われた経験、何度もしたことがあります。

日ごろは、特に迷うことなく、自分自身の信念と才覚に頼って、努力して生きていくのもよし、かもしれないけれど、大きな挫折の時には、その自分自身を信じられなくなる時がありますからね。

こうした時に、天よ、神よ、と救いを願っても、その救いはどこから来るのでしょうか。
心の中の声として? あるいは、その時に読んでいる本の、一つの文章が救いになる?
それも確かにあるでしょう。

しかして、誰か他の親しい人の言葉を通して、その救いの言葉が得られる、という経験も、どこかでしたことはないでしょうかね?

そうして導いてくれた、友、家族、先生、そういった人たちは、では、どこからその救いとなる言葉や愛の思いを得ているのかといったら、ひょっとしたら、自分の守護霊が相手の人を通して語ってくれているのかもしれませんし、大いなる意味では、天使の導き、神の愛が、まさにそこにあって、他の人という姿を借りて、わたしたちを導いてくれているのだと、そう思うのですよね。