悪い情報に目が行きやすい人 | LEO幸福人生のすすめ

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怒りっぽい人の特徴の一つとして、

悪い情報を仕入れるのが好き、というのがあるそうです。
というか、この指摘は「なるほどな」と思える、意外なポイントというか、見逃しがちなポイントかもしれません。

悪い情報というのは、誰それが悪い、悪さをしている、といったニュースに過剰に反応する、だとか。あるいは、政治が悪い、役所が悪い、あの会社が悪い、あの店が悪い、〇〇が悪い、といって、
どうしてそこまで、悪いものばかりに目が行くんだろう、というような性癖の持ち主ですね。

悪いものに過剰に反応し、良いものには反応しない、反応が薄い。
こういう手合いの人は、美談などには興味を示さず、そうしたことは偽善みたいに思っていたりする。
その一方で、犯罪だとか、人の悪行には過剰に反応し、嬉々としてそうした話題を取り上げたがる。
話題に取り上げて、その犯罪を糾弾したり、誰かをののしることで、どうしたいのか?

自分がスカッとしたいのだろう。

という指摘は、なるほど、確かにそういう本音が、そうした性悪説好みの人にはあるのかもしれない、と思いました。


不平不満のかたまりのような人というのは、なにかを非難したり、文句を言ったりして、スカッとしたいんでしょうね。いつも不満を抱えて、ストレスをため込んでいる。
怒りを爆発させて、ののしれるような対象を見つけたら、ここぞとばかりに文句を言いまくって、スカッとすることが出来るので、

だからこそ、この手の人は、無意識のうちに、そうした悪いこと、悪い人間を見つけることに、興味関心が偏っていくのかもしれない。
なるほど、と思ってしまいました。

素晴らしい人を見たり、美談を聞いても、ののしることは出来ないし、不満をぶつけることも出来ないでしょう。
だから、そうしたことには興味が湧かない。彼らは、気に入らないものを見つけたいのであって、素晴らしいものを見つけたいわけではない。不満家というのは、そうした人なんでしょうね。

本当は、素晴らしい人を見ては、その人を称え、美談を聞いたら、素晴らしいと感じて、自分もそうした素晴らしさや美談に学んで、より良い生き方を目指そう、と思うのが、人が正しく生きるための王道なんですが、

不平不満の輩というのは、まさにこの正反対を行っていて、悪いものばかりを見たがる、悪い情報を仕入れるのが好き、という特徴があるのだと思います。

素晴らしい人を称える、だとか、理想的な人物を見ては、尊敬する、だとか、褒める、ということをしない、というか、出来ない。

尊敬という行為は、自分がへりくだって、相手を見上げるような立場に立つものだし、そうした態度にこそ、謙遜だとか、謙虚さ、というものが生まれるはずなんだけれども、

傲慢な人間というのは、そういうことが出来ないのでしょう。

見上げるのはイヤで、見下す方を好むわけです。
見上げることは、自分の立ち位置が下がることを意味する(と思う)ため、屈辱にでも感じるのでしょうか。
見下す行為には、自分を相対的に、見下される側よりも上に自分を置くことになるので、自惚れ屋にとっては気分がいいことなわけです。
人を見下すことで、自分が上にいるような錯覚を得られる、錯覚から生まれる自己満足がある。これが、増長した心の自惚れ心を満たすので、自惚れた人間は人を見下すことを好むような悪癖を身に着けかねない、ということですね。

自惚れの激しい人間、傲慢な人間、怒りっぽい人間、この大本には、自己愛が強い人間、という根本原因があると思いますが、
人を見下し、自分への評価は高すぎる、ということもできるし、
周りにいる人への尊敬の念だとか、他者を褒める、といったことが出来ないタイプが多いのではないか、といった指摘も出来るかもしれません。

自分は尊敬する人がいるので大丈夫だ、とは言えないところが要注意です。
偉人や有名人をあげて、そういう人を尊敬している、というのではダメなんですよね。そうした誰が見ても尊敬できるような人のことは、尊敬できて当たり前なんだから、自分が自惚れ屋でない証明にはなりませんよ。

自分の身近にいるふつうの人、両親であったり、兄弟姉妹であったり、友人知人であったり、会社の同僚であったり、そうした、ごくふつうの、自分の周りにいる人たちのことを、あなたは尊敬できていますか? と問わねばならない。
そうした人たちを見下していたりしませんか? 馬鹿にしたりしていませんか?
ということですね。

身近な人を小ばかにしていて、偉人は尊敬しているので、自分は謙虚だ、などというのは屁理屈の誤魔化しにすぎないので、
身近にいる人を尊敬したり、謙遜の態度で接することが出来ない人は、実は、傲慢であり、自分に自惚れており、人を見下す傾向に傾いている、という危険性が大いにある、とも言えるのですから。


ののしったり、バカにしたり、文句を言ったり、といった、不平不満のはけ口になるような対象ばかりを求める癖があったら、その傾向性をこそ反省し、改めないといけないでしょう。不平不満家というのは、根本的な心の方向性に問題がある。

自分に自惚れ、他人を見下す人は、自分の心が傲慢さの中にあって、その自惚れ心が他者を見下すことで、自分が上位にあるかのような錯覚の中で、独り悦に入っているだけ、という自己の問題点を、やはり反省しなくてはいけない。

自分を高し!とする自惚れ心が、他者を裁く心を生むのだし、世の中の悪いところばかりを見つけて、それを罵るという悪しき精神傾向を増長させている。

健全に正しく、自分を磨いて自己を高めるのではなく、
まわりをこき下ろすことで、自分がそれよりは上にいる、かのような錯覚から来る自己満足は、本来あるべき自己成長に伴う喜びではなくて、自分は怠けているのに周りを見下して喜んでいるだけの、ナマケモノの疑似的な自己満足、さげすみによる自己満足にすぎない、ということを喝破しないといけないのでしょうね。


他者を祝福する心が大切なのです、と大川隆法総裁はずっと教えてくれています。
成功者を見ては、その成功を称え、素晴らしい生き方をしている人に対しては、心から賛辞を与えられるような素直な心を持つことが大切。

世の中の問題点を見つけて、それを正すための智慧を出し、努力をするのは確かに大切だけれども、それがいつしか、他の人の欠点や、世の悪いことばかりを見つけては、それを糾弾して独り悦に入っている、といった評論家気分の自己満足に陥るようになったら、これはダメでしょう。

基本は、人の良いところを見ること、性善説的なる人間観、生き方を中心にするのが基本であって、ここを忘れずにして生きながらも、世の問題点を正すときにはシッカリと意見を言う、行動する、といったバランス感覚を身に付けることこそが、人生修行の王道なのだと、わたしは思います。