読書年齢と理解力 | LEO幸福人生のすすめ

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15歳(高校1年生)から読書が習慣化し、それ以降、読み終えるたび、最後のページに、日付と曜日を記入するようになった。

そうして読んできた本をリストにして整理していたので、何歳のときに何を読んでいたのかがすぐに調べられるんですけれど。

そのリストを眺めて、思ったこと。



高校時点では、SF小説、推理小説、純文学、などを読んでいるけれど、これを当時読んで、面白いなぁと思った本は、いま読み返してみても、やはり面白い。
面白くなかった本は、いま読み返してみても、やはり面白くない。

小説に関する好みの問題というのは、10代から何十年を過ぎた今の年齢であっても、基本的には変わらない、同じような気がする。
さらには、物語を追いかけて読み、筋を理解し、内容を楽しむという感覚、文章に対する理解力も、基本、大して変わらないように思える。

そう考えると、小説(エンタメ系など)の文章に対する理解力というのは、10代だろうと30代だろうと40代だろうと、あるいは60代になっても、大して変わらないものなのかもしれないなぁー、と思ったりしますね。

年齢が上がったからといって、そんなに読解力が急上昇して、以前にはわからなかった、物語の裏の裏まで読み解く力が付く、なんてことはあまり無いような気もしてきます。

物語の筋を理解したり、登場人物の会話を理解する程度の読書力、という意味ですけどね。


これに対して、当時はそこまで深読みできなかったけれど、いま読み返してみると、

うーん深い、こんな深いことが書かれていたのか、この作品には、と思える小説もありますね。
純文学の名作と言われる作品には、やはりそうしたものが含まれているように思います。

ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」や「罪と罰」などは、10代の頃は、ものがたりの筋を追うだけの読み方であったし、それでもストーリー展開が面白ければ、面白かった!という読後感を得て、読み終えることが出来ましたけど、

これは、年齢が上がってから再読すると、その物語に秘められた作者の意図、言わんとしているテーマの深さなどが、少しは察することが出来るような気もしてきて、その作品の重厚さをあらためて痛感する、なんていうこともありますね。

エンタメ系の小説では、10代で読んでも、年行ってから読んでも、得られる感想は大して変わらないような気がする。
けれども、精神性が深まっていかないと、その深さがわからない本になればなるほど、これは年齢を重ねてから読んだ方が、いっそうその内容がよくわかる、深さがわかる、という違いがやはりあるように思う。

思想書系などは、やはりこういうものが多いし、高次の内容を含んだ思想書は、やはり読者の側にも、精神の成熟を要求するものなのだな、と思わざるを得ませんね。

何度も言及してますが、高校時代に小説読みに慣れたので、今度は思想書を読んでみようといって、パスカルの「パンセ」にチャレンジしたのだけれども、読んでもチンプンカンプンで、まるで理解が出来なかった。なんじゃこの本は?と感じたものですが、

これ、30代だかに読み返してみたら、これはスゴイ!といって、非常なる感銘を受けることになった、という稀有なる読書体験をわたしに与えてくれた本になりました。

やはり基礎知識としての、キリスト教に関する教養がある程度ないと、こうした、キリスト教精神の真髄を深く洞察した名著の真義はわからない。
それが、すごいことを語っている本だ、ということすら、わからなかったりするんですよね。

宗教書や哲学書というのは、それ一冊を読めば奥義がすべて明確にわかる、なんていうものではなくて、そこに書かれている奥義の、その深さを真に体験するためには、それを学びうるだけの基礎教養を、それ以前に自分の魂内に培っておかないといけないんですよね。

ということで、読書には、それを読むのに相応しい年齢もあるし、人それぞれ習熟度が違うということを考えれば、肉体年齢というよりもむしろ、精神年齢というか、魂の悟りのレベルが影響するんでしょうね。厳しいけれど、どうしてもそういう条件があるように思えて仕方がない。


基本を理解してからの応用編である、ということ。
人としての基礎を学び得た上での、奥義の習得であるのだ、ということ。

高次の思想の理解には、やはり段階的な理解が必要なので、2段目を抜かして、いきなりの4段目、5段目位の段飛ばし理解は難しい。
というか、そういうやり方をして学んでいるつもりであっても、着実な理解は出来ておらず、理解が抜け落ちていたり、勘違い理解をしていたり、大雑把すぎるテキトー理解をしていたりと、そういう間違いを犯しやすいのではあるまいか。

精神の世界は繊細であるがゆえに、緻密で、正確な理解をしてゆかないと危ういわけで、だからこそ、さまざまな解説なり、詳しく説明してくれる人の講義などを聞かないと、よく理解できない、正しい理解がわからない、なんていうことになるのでしょうね。


これ、具体的な例をあげて、たとえばこの本の、こういう文章に関して、
初歩的な理解と、そうではなくて、もっとその奥を見た深い理解の仕方の違い、なんていう風にして比べてみると、よくわかると思いますけどね。

こういう事例、なんか思いついたら、そのうち記事で書いてみようかなぁ、と。