「前世療法」ブライアン・ワイス著 解説 その7 忍耐 | LEO幸福人生のすすめ

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「あなたは今終わった人生を振り返って、その人生から何を学んだのかわかりましたか? もう気がつきましたか?」
「いいえ」と彼女はささやいた。彼女は待ち続けた。突然、彼女は緊張した感じになった。いつも催眠中はそうだが眼を閉じたままだった。彼女の頭が左右に振れた。

「何が見えますか? 何が起こったのですか?」 
彼女の声が今度は大きくなった。「誰かが……私に話しかけているみたい!」
「何と言っていますか?」
「忍耐ということについて話しています。人には忍耐が必要です。


忍耐の大切さ。

忍耐とは何か。何を忍耐するのか。

わたしたちは、早急に結果を求めたり、成果が出ないと不満を抱いたり、あるいは人間関係においても、忍耐ということがなかなか出来ないものだ、と思う。

時を待つ、ということ。
結果が出るまでには時間がかかる。あるいは、今世においては結果が出ず、明確に確認できるような成果を見ることさえ出来ないかもしれない。

そういう場合に、すぐに諦めて、バカバカしいことに時間を費やしてしまった、といって否定してしまったり、諦めたり、それまでの自分の努力自体を空しいことだと思ってしまったり。

忍耐、ということが出来ない。待つことが出来ない。早急に結果を見たいと逸る心がありはしないだろうか。

人間関係においても、相手の成長を待つことが出来ない。それは、自分自身の成長を待つことが出来ない心と、連動しているのかもしれない。
自分を許し、人を許すこと。永遠の時を生きているということを、真に理解すること。


大川隆法先生は、自分にとって最も難しかったのは、忍耐すること、忍耐の時を待てるかどうか、ということだった、みたいなことを以前、述べられていたと思う。

使命があることを告げられていても、その使命を果たせるような状況が、すぐには現れない。

私たち自身も、自分なりの理想を抱き、かくあるべし、かくあるべき、と自分を鼓舞したとしても、そうそう思い通りな自己実現が出来ないと、時を待てずに、すぐに諦めてしまったりして、忍耐することが出来なかったりしないだろうか。


キャサリンを見守り、導いてくれているマスターは、忍耐の大切さについて、次のように語り始める。

 

 

その答えは、詩人のマスターからのものだった。
「大切なことは忍耐とタイミングだ。……すべてのことには時がある。人生をあせってはならぬ。人生は多くの人々が期待するように、うまく予定通りにゆくことはない。したがって、人はその時々にやってくるものを受け入れ、それ以上を望まない方がよいのだ。命には終わりがない。そして、人は決して死なないのだ。新たに生まれるということも本当はないのだ。ただ異なるいくつもの場面を通り過ぎてゆくだけなのだ。終わりというものはない。人間はたくさんの次元をもっている。時間というものは、人が認識しているようなものではない。答えは学びの中にあろう」


人生を焦ってはならぬ。とマスターは述べている。

わたしたち人間は、人生を焦って生きていることが確かに多いように思う。
先に述べたような、結果主義や、成果が出ないとすぐにジタバタして、余計な行動を取ってしまったり、じっと静かに待つ、ということが出来ないでいる。

忍耐とタイミング。
人生は、多くの人が期待するように、うまく予定通りにゆくことはない。と言っている。

わたしたちは確かに、期待し、望んでいる。
自分の人生が、自分の希望通りに、願った通りに、願い通りのタイムスケジュールで、自分の人生が充実し、よくなってゆくことを信じて、生きている。

しかし実際の人生は、そんな予定通りには上手く進んでくれない。
さまざまな試行錯誤あり、大失敗あり、望みかなわず心がくじけることあり。いろいろあるのだ。

もともと人生とはそういうもの。そうそう思い通りになるものではない。それが人生なのだ。
と、高級霊からハッキリ言われたら、ああ、やっぱりそうなんだ、といって受け止めざるを得なくなりますね。

あまりにも無いものねだりに走り過ぎたり、分不相応な高望みをして、それが得られないといって苦しんだりするのではなく、

もっと大らかな気持ちでもって、自分の人生を受け入れ、そのときどきに、自分の人生に現れるものを受け入れて、生きていった方がいいのだ。

と言われると、それは受け身に過ぎると勘違いしかねないかもしれないけれど。
そうではなくて、あまりにも前のめりになって、常により善いこと、さらに何かを獲得することのみを目指して、あくせく生きるのは、バランスを欠いている生き方だ、ということなのでしょう。

それ以上を望まない方がいい、というのも、諦めよ、分を知って生きればよい、と言っているのではなくて、これは仏教的には、足ることを知る生き方をもう一度思い出しなさい、という意味でもありましょう。

いま与えられていることに感謝し、生きるなかに、人生の喜びの基本はあるのだ、ということ。それが、その時々にやってくるものを受け入れる、という生き方の意味だと、わたしは思う。

現状に満足せず、不満だからこそ、何かを得ようとしてアクセク、ジタバタしすぎる生き方は、その前提が間違っているのかもしれない。

現代人が忘れている、人の生き方の基本を、マスターはここで述べているのだと思います。


命には終わりがない。本当は、生も死も無い、魂は永遠の生命を持つのだから。
永遠の時のなかを生きているのが、人間の真実の姿なのだ。
そうした生き通しの生命が、いくつもの違ったシーン、異なる地上人生を通り過ぎて、そういう体験を重ねているだけなのだ。

そういう視点をもって、いまの、この自分の人生数十年を見直してみたら、その鳥瞰的立場から見える自分の人生は、いままでとは違った姿に見えてくるのではないだろうか。


SF小説の「スローターハウス5」を思い出してしまいますね。カート・ヴォネガットのSF小説。

以前も記事で紹介したけれど、これは主人公のビリー・ピルグリムが、自分の過去・現在・未来の場面を、行ったり来たりするという物語。
ただ意識のみが、過去の1シーンに戻ったり、あるいは未来の1シーンに移ったりして、自分の過去・現在・未来を、何度も何度も行ったり来たり、それもランダムに、順不同で再体験する物語。

過去も現在も未来も、すでに存在しており、そのどこの時点に自分の意識がいま在るのか、というだけの問題なのだ、というようなことを感じさせられるお話で、なんとも不思議な読後感を味わえるSF小説です。

未来も確定しているので、主人公はある意味、諦念の中に生きている。
これはテッド・チャンの「あなたの人生の物語」も、同じテーマを含んでいると思いますが、

未来は確定してしまっている、わけではないのが、真実の世界であるようなので、その点はちょっと疑問符がつくんですけどね。
未来はあるようでいて、確定はしていない、変化しうる。いくつもの未来の可能性がある。それは、いわゆる、パラレルワールドの概念につながるものなのか。わかりませんが(笑)、
実際は、SF作家の想像をはるかに超えて、さらに理解を超えた神秘の中に、この世界は存在しているのかもしれません。


 … つづく。