「前世療法」ブライアン・ワイス著 解説 その5 心が変わる! | LEO幸福人生のすすめ

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実際に体験してみなければ、こうした概念を信じるのはどんなに難しいか、私にはよく理解できた。頭で理解するだけでなく、それを感覚的に信じるようになるためには、体験が必要なのだ。しかし、体験のインパクトも、ある程度、薄れてしまうものである。


これは確かに、その通りだ! と思う。

現象!! 驚くべき霊的体験をすると、その瞬間には非常なる驚きと衝撃を感じる。そして、あの世は本当にあったんだ。守護霊が本当にいて、自分を見守ってくれていたのだ! ということを実体験する。

しかし、悲しいかな。そういう体験をしたとしても、その瞬間の真っ最中の臨場感は、時間とともに薄れて行ってしまう。それから何日、何ヶ月、何年と、なにごともなく普通の時間が過ぎていくと、あれは本当にあったことなのだろうか、みたいな感じで、肉体に宿って生活する地上的なる自分に逆戻りしてしまう。埋没していってしまいかねない。

常にそういう体験をし続けているのなら、その驚きを維持し続けることが出来るのかもしれない。
けれども、時たま、それも人生の一時にのみ、そういう不思議体験をしたとしても、その臨場感をそのままに、ずっと心に持ち続けるのは難しいのではないだろうか。

経験があっても尚、人というのはそういう忘れっぽいというか、同じ心を持ち続けるのが難しい存在なのだとしたら、
実体験がないままに、ただ言葉による概念説明だけで、それを理解し、信じることは、いかほど難しいことであろうか。


しかして、直接体験があるか否かに関わらず、間接的にであっても、人は確かに真理を学ぶことは出来る。
そうした体験を経て、真理を悟った人の教えを、心素直に聞き、それを信じ、その教えにしたがって生きる時に。
みずからの心を変革し、神仏の望むような生き方が出来るような自分となるために、己を磨き、自己に修正を欠ける努力を惜しまずに、この人生を生きてゆくときに。


その教えを本当に理解できているかどうか。魂が確かに体得できているかどうかは、自分自身がどれだけ変わったかを見ればわかるのでしょう。


たとえば、ワイス博士は次のように自分が変化したと述べています。

自分が以前よりずっとおだやかで忍耐強くなっているのは知っていた。他の人からも、とても平和な感じだよとか、ゆったりと幸せそうに見えるよなどと言われるようになった。人生に対し、以前よりももっと、希望と喜びと目的と満足を感じるようになった。死への恐怖もなくなりつつあった。自分の死も、この世からいなくなることもこわくなかった。人を失うことも前のように恐れなくなった。


私は自分の子供達や妻を見て、前世でもどこかで一緒だったのだろうか、と思った。私達は互いに、今生一緒に生まれ、人生の試練や悲しみや喜びを、ともに分かち合おうとそれぞれが選んできたのだろうか? 私達は本当に年齢がないのだろうか? 私は家族の一人ひとりに、深い愛とやさしさを感じた。彼らの欠点や過ちなど、取るに足りないということにも気がついた。そんなことは、実はちっとも大切ではないのだ。大切なのは愛なのだ。  
私は同じ理由から、自分の欠点をも許している自分に気がついた。いつも完全である必要も、自分をコントロールする必要もなかった。他人によく思われる必要など、少しもないのだ。



キャサリンもまた、次のような明らかな変化、善き変化がみずからに生じたことを自覚しています。

真に知ったら、人は変わる。聖なる教えを学んで、その本質を魂がつかんだなら、その人は心自体が変わり、生きざまが変わる。

キャサリンの神経症的な強迫観念や不安症は薄紙を一枚一枚はがすようによくなっていった。彼女の心は一週間ごとに落ち着きを取り戻し、少しずつやわらかくなり、忍耐強くなっていった。彼女は自信を持ち始め、人々は彼女に魅きつけられるようになった。キャサリンは前より人にやさしくなり、まわりの人も彼女に愛を返すようになった。彼女の本当の人格、すなわち、彼女の中にあるダイヤモンドが輝きを増して光り始め、誰の目にも見えるようになった。


最初の催眠術のセッションから三カ月半が経過した。キャサリンの症状は完全によくなった。そればかりか、単に病気がなおったというより、もっとよい方向へと進歩していた。彼女は輝くばかりに美しくなり、おだやかなエネルギーをまわりに放射するようになっていた。人々が彼女のまわりに引かれるように集まってくるようになった。彼女が病院のカフェテリアで朝食をとっていると、男性も女性も彼女のテーブルで一緒に食事をしたがった。「あなたはとても美しい。その一言が言いたくて」と彼らは言うのだった。彼女はまるで漁師のように目に見えない霊的な糸で人々を引き寄せていた。彼女は何年間もずっとそのカフェテリアで食事をしていたのに、以前は、彼女がいることにさえ人々は気がつかなかったのだ。


ワイス博士もキャサリンも、過去世と現世のつながりという神秘を深く知れば知るほどに、現世の意味を以前にも増して、深く理解できるようになった。

悲しむ必要の無いこと。苦しむ必要はもう無いのだ、ということ。

過去世に体験した苦痛や悲しみは、魂の深いところに刻印されていて、それがその人の潜在的な恐怖や苦しみの原因になっていたりする。
しかし、その大本となった事件そのものは、もはや過ぎ去った過去のことであり、ならばその苦しみそのものを、現世まで引きずる理由は無いのだ。

愛する人との別れは耐え難い。その喪失感は、耐え難いほどの苦しみになり、愛する者を失う恐怖や、別れる悲しさ、捨てられることへの不安など、といった気持ちを、その人に持たせるのかもしれない。

けれども、魂は永遠で、別れたと思った愛する人とも、別の転生で再び会い、それは過去世でもそうであったし、来世でもそうなのだろう。
そう考えると、ワイス博士の言うように、自分の死も怖くなくなり、愛する人を失うことへの恐怖も感じなくなる、平安な心でもって生きられるようになる。

頭だけの理解ではなく、本当に心からの実感をともなった理解をすること。



それからまた、面白いな、と思った、もう一つの点。

転生の記憶がランダムに思い出されて、遥か昔の過去世では老女であったり、それより後の転生では幼い子供の姿で出てきたり、死の瞬間が出てきたり、20代の青年期が出てきたり、亡くなる直前の老いた姿で出てきたり、それが時系列はバラバラのランダムだったりすると。

人の年齢というのは、いったい何なのだろうか。という、不思議な気持ちが芽生えてきます。

私の髪は黒くて少し白髪がまじっています。時代は一七五六年で、私はスペイン人です。名前はルイザ、五十六歳です。


私は二十五歳です。私にはクレアストラという名前の女の子がいます……


彼女は他の召使い達と一緒に、お屋敷の台所にいた。彼女は黒人で、名前はアビーと言った。


「アロンダ……、私は十八歳です。」


彼女は家族に見守られて、自宅のベッドで老衰のために死んだ。  

彼女は死ぬと再び、体から抜け出して浮かび上がった。しかし、今回は、うろたえたり混乱したりすることはなかった。 「明るい光が見えます。すばらしい光です。この光からエネルギーをもらうことができます」。彼女は死後、生と生のはざまで休息していた。


その時代時代に、年老いた時のエピソードが出てきたり、ずっと後の時代の転生だけれども、その時にはまだ幼い子供の姿で出てきたり … 。

そういう連鎖をつぎつぎに眺めていると、人の年齢、肉体年齢というものは、あくまでも、その転生に限っての、その生涯の若さと老いの違いでしかない、といった感覚に襲われます。

確かに、生まれ落ちて、長く生きれば生きるほど、肉体は老い、正心法語にもあるように、白髪となりて過ぎゆくこと、といった悲しさがある。
がしかし、その同じ魂が、しばらく後の時間で見ると、幼い子供になって、また別の人生を生きていたりする。

あくまでも肉体年齢は、肉体にともなった年齢に過ぎない。老いも若きも、その肉体人生の、どの時期に相当するか、というだけの話でしかない。

魂の方は永遠の生命なので、老いも若いも無い。生老病死は、地上という特殊な世界でのみ感じられる悲哀でしかないのかもしれない。

生命の永遠性、魂の永遠性を、本当に心の底から実感的につかむことが出来たなら、生老病死の苦しみからは、心が開放されるのかもしれませんね。



「りんごの木が見えます……家があります。白い家です。私はその家に住んでいます。りんごが腐っているわ……虫がいて、食べられません。ブランコがあります。木にブランコがつりさがっています」  
私は彼女に、自分の姿を見るように指示した。
「私は明るい色の髪をしています。金髪です。私は今、五歳です。名前はキャサリン」  

私はびっくりした。彼女は今生のことについて、話しているのだ。彼女は五歳のキャサリンだった。



思い出された過去世に、今世のキャサリンその人が登場した時は、なぜだかジーンとしてしまいました。

ああ、こうやって人は生まれ変わってくるんだ。キャサリンとして生まれてきたんだね、という感じ。

感動です。



 … つづく。