この短編シリーズはただただ、「頑張れ女の子!」という趣旨の元、書いております。

どの話も、主人公の「私」の名前は出てきません。フィクションと言えど読んでくれてる「あなた」のお話だからです(決まった~~!?)。


過去の短編はこちら→「頑張れ女の子シリーズ」


※今回の短編はゆーみんさんから頂いたメールを元に書きました。今回のは本当に切実な要望を元に書いたので、ゆーみんさんのために最後まで読んでくれれば本当に嬉しいです。



「続いていく、命の道」



プス


プス


私が楊枝を、キュウリに刺していくのを、息子はめずらしそうに見つめている。テーブルにもみじみたいな手を掛け、あんぐり口を開け、大きな目をキラキラさせて。


「おかーさん、なにやってるの?」


子供はいつもと違うことには敏感だ。まだまだ世界はめずらしいものばかりなのだろう。


「さぁーなんでしょう?」


朝、家事の合間に斜め見していたテレビ番組で、たまたま特集していたお盆の風習を思い出したのだ。私の母が毎年やっていたこと。


「なになになに?!!」


大げさに足をじたばたさせて大声をあげる息子。

そうしている内に、私はキュウリに楊枝を刺し終え、テーブルに立てた。動物のように四本足が生えた格好のキュウリがちょこんと鎮座する。

次にナスを取り上げながら、騒ぐ息子にゆっくり話し始めた。


「・・・あのね、お星様になった人たちが、お盆の間だけ戻ってくるの。それでね、戻ってくるときは、キュウリでできた“お馬さん”で早く来てねって。そして、また行っちゃう時は、ナスでできた“牛さん”でゆっくり帰ってねって。そのために作るんだよ」


「・・・おほしさま?・・・あ、バァバもかえってくるの?ママのママ!」


「そうだよ。ママのママ。バァバも帰ってくるの」


「そっかー。バァバやさしい?あいたいなー」


お盆に先祖が帰ってくる。その為のキュウリ馬とナス牛を作る母に、幼い私も、息子のようになぜ?なぜ?と聞いたことがあった。


「はやくきてーゆっくりかえるー♪」


でたらめな歌を作詞作曲して息子は歌いだした。
私がナスに最後の一本、足を刺すと、キュウリ馬に並べて立てた。


「でも行っちゃうのさびしいね。ずっとずっといればいいのにね、バァバ」


並んだ馬と牛を見つめながら、ふと息子が言う。


「そうね。そうだね。ママもそう思うよ」


答えた自分の言葉が、誰か違う人が発したように虚ろに頭に響いた。


お母さん。
会いたいな。



私の母が亡くなって、もう三年が経つ。

息子が生まれたひと月後に母は亡くなった。
生まれたばかりの息子を抱え、呆然としていた私を時間は待ってくれなかった。息子をなんとか育てるためだけに全精力を費やした。


同時期に子供を生んだ友達が、育児でわからないことや不安なことを自分の母親に聞いたりしているのを見て、お母さんどうして死んじゃったの?と息子にミルクをあげながら涙したことが何度もあった。



父が浮気をし、その上借金まで残して消えてから、母は自分の人生の余力をすべて私たち子供のために使った。

私はそのことを知らず、母に甘えてばかりだった。

母の死後、家に遺された通帳の残高は底をついていた。ひとつだけ手をつけていなかったのは、弟のためにと母がこっそり貯めていた結婚資金だった。


誰に誉められることなく、母は死んでいった。

私にとってはたった一人の母だった。



ラーラーラー♪


「あぁ!」


お気に入りのアニメのテーマソングが流れ出し、テレビに駆け寄ってはしゃぐ息子を横目に、キュウリの馬とナスの牛を作り終えた私は、仏壇にそれらを供えた。


遺影の母に手を合わせる。笑顔はずっと変わらない。

母にもう触れることはできないのに、思いは消えることを知らない。


歌に合わせ踊っている息子に、


「あんまり暴れると危ないよ」


と、声をかけ、横になった。


ずいぶんせり出してきたお腹に手をやる。二人目の子が今年の暮れに産まれてくるのだ。
私も母親になり、わからなかったことがクリアに見えた三年だった。クリアに見えたその分、私たち子供を大切に思ってくれた母を分かってあげられなかったことを、来る日も来る日も後悔した三年だった。



お腹をさすりながら、ぼんやりしていると、息子が隣に添うようにごろんと寝転がり、私の真似をして、弟か妹、どちらかが育っているお腹をそっとそっと撫でる。


「おーい、おにーちゃんですよー」


ブツブツ言いながら。


優しい子に育ってくれた、と思う。
息子のその手に私の手を重ねて、二人分の温もりをじんとお腹の子に送った。
そうしているうちに、瞼がトロトロ垂れてきて、すうっと眠りに落ちた。




夢を、見た。

幼い頃の記憶がはっきりとリアルな感触を持ってよみがえった。



斜めに傾いた太陽が放つ、淡いオレンジの夏の夕差しが部屋にふんわり広がっている。
半袖の、胸元に大きなリボンがついたシャツを着た私は、小学校に上がったばかりだった。


母がナスに楊枝を刺しているのを見つめる私。


「どうして刺すの?食べるの?」


部屋の光景。つやつやと母の頬や額、私の手が照り返すオレンジ色。


「んー?どうしてでしょう?」


手をくるくる動かしながら、母は笑った。


「ねーどうして?どうして?」


急に寂しくなって、私は母にまとわりついた。

夕日があまりに綺麗で。さよならしていく一日の静けさがなぜか心細くて。
小学生だった私にはわからなかったその寂しさの理由は、今の私ならわかる。

過ぎる時間への寄る辺なき思い。どこにも帰れないという郷愁。手いっぱいに掴んでおきたいとあがいても、するりくぐり抜け、流れていってしまう時間の悲しさ。


そして。


「ふふ。あのね・・・」


私に微笑んで、母が話し始めた。



パタン


物音でハッと目が覚めた。

一瞬、自分が小学生なのかと勘違いするほど、母と一緒にいたあの部屋の夕差しと同じオレンジがリビングに差していた。

窓の外には夕焼けが、ダイナミックに、けれど音を立てず、鮮やかな光の翼をきらめかせはじめていた。


音のした方を見ると、息子が冷蔵庫からきゅうりとナスを取り出していた。


「どしたの?」


「ぼくもねーつくるよー、あのねーおにいちゃんだし」


と、私がさっきまで使っていた楊枝をテーブルから取ろうと、椅子にのぼりはじめた。


「あぶないよ。じゃあママと一緒に作ろうか」


「うん」



母との記憶。息子の優しさ。そして、もうすぐ産まれてくる子。
過去・現在・未来が共にある。この夕焼けのオレンジの中に等しく、ある。


私が、いつかもしたくさんの大変な中で、命を終えたとして。息子たちにわかってもらえないまま死んだとして。はたして私は子供をうらむだろうか。
きっと、そんなことはない。
それが、母親というものではないかと思う。母が私を生んでくれたように、私も息子を生んだ。その続いていく命の道の中、母親というものは自分がどう生きたか、どう死んだかなど関係なく、ただただ子供の幸せを願うものなのではないか。と。


こう思うことは勝手でしょうか?お母さん。
たくさん謝りたいことも伝えたいこともあるけれど、もしも叶うのなら、ただもう一度、もう一度だけでいい。会いたいよ。お母さん。


これからも続いていく命の道。
母と私の思い出も、私と息子の今も、私と生まれてくる子の未来も、一本の道でずうっと続いていく。それは否応なしに。
そのことのもどかしさ、切なさ、叶えそびれた夢も、言えなかった思いも、すべて背負って歩いていくのだ。「幸せ」な命の道を。



息子が作ったキュウリ馬とナス牛も仏壇前に並べる。計四つの馬と牛が、滑稽な感じで所狭しと立っていた。


「バァバ、どっちにのればいいのかまよっちゃうねー。どっちのお馬がはやいかなー」


私のエプロンを引っ張って言う息子の頭を撫で、しゃがみ込み、ぐっと抱きしめた。
鼻をくすぐる子供の汗の香り。どこかミルクが隠れているようなその香りに、涙が溢れた。
見渡す夕焼けは、電線の線譜の向こう、ゆっくりと絞るように、美しい音色で終わりを告げていく。



そう。

あの日の母と夕焼けの記憶。その続きは……。



「ふふ、あのね、もう死んじゃった大切な人たちがお盆になったら戻ってくるの。だから、戻ってくる時には早くキュウリの馬に乗って、帰る時にはゆっくりナスの牛に乗ってねっていう意味があるの」


「たいせつな人?」


「そう。大好きで大切な人だよ」


「じゃあ私はおかーさんだ!おかーさんだいすきだもん」


「そう、ありがとう。でもお母さんまだ生きてるよー」


「あ、そっかぁ!お盆終わってもずっとずーっと一緒だぁ、ずーっと」


そうだよ、と、楊枝とナスを置いて、お母さんは私を抱きあげてくれた。


「重くなったねー」


そう言って目を細める、母の暖かい胸の中から見た窓の向こうに広がる夕焼けが一段と燃えて、私たちを甘く羽がふわり梳くように、照らしていた。




これからも生きていく。命の道の途中だ。あの日の夕焼けも、今日の夕焼けも、すべては「続いていく」という幸せの中に。


      終わり



このお話は、「ゆーみんさん」という読者さんから頂いたメールを元に書きました。

ゆーみんさんは今年の6月に男の子を出産され、そのひと月後にお母様を亡くされました。お母様の苦しみをわかってあげられなかったと、今も悔やまれる日々が続いています。

そんなゆーみんさんが、「いつもブログを読んでいます。母の為に何か書いていただけないでしょうか?」と。

人生経験も浅く、子を生むこともできない私が、果たしてゆーみんさんの為に何かを書けるのか。書けたのか。それが心配でなりませんが、これが私の書ける精一杯です。稚拙な話でごめんなさい、ゆーみんさん。

でも、この話を書かせてくれたこと、心から感謝しています。ありがとう。

ゆーみんさん、お母様、息子さん、ご家族の方々。ありがとうございました。