「ジャズの国際化?ジャズと民族性」
1950~60年代頃までと比べると
現在はジャズの世界でも音楽教育が発達し
楽器の演奏技術でも、演奏上の理論でも一定の体系が確立しているのでしょう
今の新しい世代のミュージシャンはみな
共通の基礎知識を持つようになり
ジャズを演奏するという点においては
黒人も白人も、あるいは黄色人種も
大差がない状態になってきたのでは、と想像します。
しかしある時期まで黒人のジャズと白人のジャズには
一聴してわかる明確な違いがあったように思います。
自分が今までジャズを聴き続けてきた限りでは
一部の例外を除いて白人ミュージシャンは
黒人ミュージシャンが持っている“何か”を
持っていない場合が多かったように感じます。
これは決して白人ミュージシャンのジャズがつまらないとか
聴くに足るのは黒人ミュージシャンだけだとか言うつもりではなく
ただ両者のサウンドの間には
厳然とした差を感じてしまうということです。
ところが今の新しい世代では
白人だけでなく黒人も(あるいは黄色人種も)
その“何か”を持っていないジャズ・ミュージシャンが
主流になっているような気がします。
このことはジャズが人種に関係なく演奏できる
国際的な音楽になったこととして喜ぶべきなのか?
あるいはジャズがその発祥から歴史的に持っていた
伝統を失ったこととして憂慮すべきなのか?
長くジャズの現場だったアメリカ合衆国からは
遠く太平洋を隔てたアジアの島国に住み
シーンの出来事の上澄みを、ごく一部すくい取ったに過ぎないであろう
レコードというものを聴くことでしか
ジャズという社会現象を想像することができない自分は
当然それを判断してもよい立場にあるはずがありません。
日本の国に生まれ育った自分が
なぜわざわざジャズの真似事をし続けているのか?
そんなことを考えて頭の中が混乱したときは
武蔵野音楽学院の講師でありジャズ・ピアノ奏者であった小山大宣さんの
「ジャズ理論講座Jazz Theory Workshop(中・上級編)」
(武蔵野音楽学院出版部)の「あとがき」を開きます。
日本人によって書かれたジャズ理論書としては
これ以上にわかりやすいものはないと思います。
しかし本編の内容もさることながら
自分はなにより「あとがき」に感銘を受けました。
自分自身がなぜジャズをやらなければならないのか?
自分にとってジャズとは、音楽とは何なのか?
そして、自分とはいったい何なのか?
地球の裏側まで数時間で飛んでゆける時代に
国民性や民族性を論じることは無意味でしょうか?
音楽は楽しければいいさ、
あまり深刻に考えこむ必要ないよ・・・・
ほんとうにそうでしょうか?
(本書「あとがき」から抜粋)
「ジャズ理論講座Jazz Theory Workshop(初級編)/小山大宣」
についても記事を書いています。
- ジャズセオリーワークショップ ジャズ理論講座 中・上級編/著者不明
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