公演の記憶を追憶とするため 4 | デペイズマンの蜃気楼

デペイズマンの蜃気楼

日々の想った事、出会い、出来事などなどをエッセイのように綴りたいなと。
時折偏見を乱心のように無心に語ります。

「キムさんが若手だった!」と団員から驚かれてしまった。
初顔合わせの時に奈須さんとの再会で、初対面から時間がたくさん過ぎた事を懐かしさを含めて語り合った飲み会で、二人してメニューを開いて「何を飲まれますか?ビールの方は?」と注文取りに気を配るのは実に十何年ぶりの経験だったろうか(笑)
公演や稽古のタイミングで、寺井さん、柴垣さんという二十になったばかりの年を生きる二人とは途中で出会った。
先輩方に混じりながら、全力で楽しむ
若い二人と共演できた事も嬉しかった。
色んな現場で中年や老年に混じる二十代を見ると、嬉しくもなり羨ましくもなる。

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そしてまだまだ出会っていない幼く若い人たちへ。
説教は好きじゃないけど、説教と取られても良いし、事実、説教になると思う。

若い子はどんどんどんどん先輩たちと絡むべきだと思う。
学べる事の想像を超えて学べるから。
「学ぶ」というのは喜んで受け入れ易い事ではない。苦しさも歪みも何もかもを含む。
目の前で起こるありのままの現実が「学ぶ」何もかもであって、その先を得るのが「真実」なんだから。
大人も先輩も敬うのは人として当然だ。「礼」と「儀」は「人間」であって「創る」という事は「人間」なんだから。

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だからといって大人と先輩が何でもかんでも正しいわけじゃない。
システム化だけを学んだ若い幼い演劇人の子が、何でもかんでも先輩にペコペコ頭を下げて、何でもかんでも先輩の意見が正しいと鵜呑みにしている姿を見ているとやるせなくなる。害でしかないくだらない感性の演劇人の大人や先輩はすぐ隣で溢れかえっているんだ。
世界でも歴史でも虐殺をするのは大人である。
くだらない大人とくだらない先輩は大声を出して「我こそは皆の代表」と叫ぶから、何も知らなければ存在も声も鵜呑みにしてしまう。
けど、先人はアホばっかりだとレッテルを貼るのも愚かだ。
アホの数万倍、沈黙をしている素晴らしい先人達が居るという事を見つけなければならない。
どんどん絡んで学べばいいじゃないか。もちろん鵜呑みにしてしまうのも大事な経験だし、否定も全力ですればいい。吠えればいい。頭も下げればいい。鼻で笑ってやればいい。悪口を言えばいい。陰口を言えばいい。憧れればいいし、盲信してもいいし、アンケートにもblogにもボロカス書いてやればいい。
幼い君たちがする反応は、全て自分で広げている風呂敷だし、行動も言動もその数の分だけ全て風呂敷の範囲となる。
広げれば広げるだけ包むのは大変になる。
けど、それを包む事が「責任」と呼ばれる。
それに気付かずに放置したままだと愚か者に仲間入りとして世の中の悪性腫瘍となる。
広げすぎて追いつかなくて包みきれなくてもいい。一生懸命包む慌ただしさの汗と呼吸が、見守る人から「生き様」として敬意を受けるんだ。

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だから一番一番大事なのは、世の中に在る世代と時代の中で、自分の時間を隔離しない事。
それだけは絶対にしてはいけない。
喜ばれても可愛いがられても嫌われても殴られても殴り返しても、先輩達に接する事。
作品の現場に迷惑なほどに関わればいい。正しい礼儀を持って。
作品を手伝って技術を学んだら、その次の御飯や酒の席についてって座れば、技術が生まれた幹を知る事ができる。
幹を知った技術には必ず心が入るから。

「そんな事をえらそうにアップする金哲義、うっぜー!!」て思ったらいいし、実際ウザいと思う。
明日たくさんの先輩たちから「キムくん、えらそうな事をアップしてるなぁ。若造のくせに」と睨まれたら「ごもっともで…」と頭をポリポリ掻くしかないけど(笑)


けど、先人達から学んでみ?
楽しいよ。ホントに。
そして誰もが楽しい事をしたくてクリエイトの道に気付いたんだから。

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