公演の記憶を追憶とするため ラスト | デペイズマンの蜃気楼

デペイズマンの蜃気楼

日々の想った事、出会い、出来事などなどをエッセイのように綴りたいなと。
時折偏見を乱心のように無心に語ります。

アリョンとセリョンが観にきてくれた。
二人とも朝鮮中級学校の15歳。
演劇を一度教えた、わんぱくなバスケ部6人衆の二人。

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*寺井さんに「アリョンとセリョンは二卵性の双子ちゃんなんですよ」と嘘を教えたらマジで信じてた*

学校という範囲を越えて観れる作品は時間の許す限り観てほしかった。
今回の作品は1973年の大阪ニセ夜間金庫事件が題材。
71年生まれの僕にも記憶が体験していない時代であり事件だ。
やがてそれは僕らにいよいよ記憶に新しいグリコ森永事件へと繋がりを見せるという創作劇。
迷宮入りで時効が成立しているので作品の全ては憶測でしかないし物語でしかない。
しかし時代を象徴する事件の裏側には時代があり、時代があるという事は情勢があり人間がある。
戦後から高度成長期の中で日本に生きる人たちが抱いてた世界がひっくり返ったと言われる、人間の激動の瞬間。
朝鮮学校出身で北朝鮮を「祖国」と習った僕には脚本も配役も他人事ではないし、そして参加する空間も他人事ではなく、そしてその空間に混じっている姿を次の世代に一人でも多く観せたい作品だった。
もちろん幼い二人には時代の背景も事件の事実も、そこから繋がる次の衝撃も、まだまだ学校で習う時期ではないので知る由もない。
けど「へ~、こんな事あったんだぁ」で充分だ、今は。
舞台で展開されるドタバタを笑ってほしかった。
そして大事なのは、少しずつ少しずつ社会への理解が深まった時に時代の裏には必ず人間が生きていて、それがまさに「ドラマ」で「物語」であり、それが人の心の栄養になる本当の「娯楽」なんだと知っていく。
「まだまだ15歳には難しい情報やからね」と前以て言っておいた。
ウトウトしてくれても良かった。ついて行けずに寝てくれても良かった。
作品中、ちらりと見ると「う~ん、難しい」て顔をしている時もあったし、聴き入ってる時もあったし、退屈している時もあったし、目を擦っている時もあったし、たくさん笑っている時もあった。
けど彼女たちの忙しい1日の、帰宅に少し遅い時間のわずか95分。
彼女達にも気付かずに必ず大切な時間となる。

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世界は一括りではないし、たくさんのカテゴリーに分かれる。
演劇という一つのカテゴリーにも、たくさんのカテゴリーが存在する。
学校という組織で習わされる「前を見て大きな声を出せば上手い演技だ」などという観念がペシャンコになって肥料にもなれないほどの重みで踏み潰されるくらいのカテゴリーが在る。
リーディング芝居も一つのカテゴリーだ。
今回は「手にした台本が一番邪魔そうでしたね」と皆が口を揃えるほどに変わった演出だった。
世界は決して一括りではなくて、たくさんのカテゴリーが在る。
そのカテゴリーの表し方も手法は一つではないし、一つではないどころか星の数くらい存在する。
自分たちが生きる時間と空間と未来もたった一つの演出法に収まる必要はない。
そんな事を思う、入り口の隙間から漏れる細い光を感じてもらったら、今はそれだけでいい。

どんな大きな出来事も、結局は君たち次世代に伝える、という一本道だけがある。
第六感に伝えるデータ送信は文化にしかできないのだから。

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