夏休み明けに我がオラトリオにやってきた司祭が、過去の夏のオラトリオについて知りたいといって関係者5人が招集された。
まだ先だと思っていた夏のオラトリオ。気が重いなあ。
でもそう思うと、パパさまの言葉が脳裏を横切る。
>Il cristiano è chiamato a impegnarsi concretamente nelle realtà terrene, illuminandole con la luce che viene da Dio. キリスト者は、神からくる光を照らすこの世界の現実の中で具体的に働くよう呼ばれています。
口だけではなく、具体的に。私の使命は何か?その使命は喜び、満足、そして仲間との調和と共に為せられているのあろうか?
早速、自分にとっての夏のオラトリオとは?と聞かれた。うーん、満足感はなくもない。というか、それを感じられなかったら意味がないだろう。誰に?何に対して?強いて言えば子供達の喜ぶ顔をみることか?気分よくオラトリオに通ってもらい、私が教えるラボラトリオ(昨年は切り紙と工作教室をしたが、それまではずっと折り紙教室だった)で作ったものを喜んで家に持ち帰ってくれたら嬉しい。
じゃあ、何が問題?と聞かれた。
オラトリオは全員に開かれたもの。宗教も人種も関係ない。来たい人は皆受け入れてあげるべき。けれど、地域上、移民や他宗教の子供達が多く、悪いが、躾のなっていない子があまりにも多い。
小学校での移民問題(教育レベル云々)が騒がれるたび、子供に関しては、イタリアで生まれているし、言葉もできる!と主張する団体が必ず出てくる。でもイタリア語ができても、授業についてこられない子供達は多い。また家庭のバックアップがほとんどない。そして、何が問題かというと、礼儀や人を尊重するといった躾自体なっておらず、やりたい放題の子達が多い。学校へ行っても、授業にはついていけない。またやりたい放題するので、教師軍も匙を投げ、彼らを放っておく。実際、幾つかの学校でその状況もみているので、ありゃ先生も怒るわな...と思う。
それでも、司祭は、オラトリオに来る子供達の躾がなっていなければ、地域の人が育てるべきだ、という。 子供をオラトリオやカテキズモに行かせている親ならば、そこに来ている子も注意してもいいはずだ、と。言うこと聞く子たちだったら苦労はしない。
理想はそうだ。本来この地域のカテキズモを受けている子達がオラトリオに近寄ってこないのが現実。来ても、日本のお宮参りや七五三のように「儀式」の一つでしかなく、夏のオラトリオもほとんどが移民の外国人ばかり。
延々と堂々巡りの会議で気づいたら夜の11時半。また集まろうといって帰宅。
だいたい、自分の子供を躾けるにもアップアップなのに、どうして他人様の子供を育てられる?!
ジレンマは続く...