裏すなふきん放浪記

裏すなふきん放浪記

ふだんはにこやかにふるまう

女子の裏側をお楽しみ下さい。

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近所のけっこう大きい本屋さんが閉店することになった。

残念な思いで、本屋に行くことに。

 

別に割引価格になっているわけではないのだが、

私と同じ思いなのだろう、店内は人でごった返していたが、

陳列はガラガラでさみしい限り。

 

最近は、紙媒体で本を買うことも少なくなり、

本屋からは、足が遠のいていた。

 

ああ、もっと利用すればよかったな・・・

 

罪滅ぼしというわけではないが、前から欲しかった、

幻冬舎文庫の村上龍のインソムニアを買うことに。

 

「お客様、商品はどちらですか?」

 

店員に声をかけられ顔を上げる。

私は、いつのまにかレジに並んでいたようだが、商品を手にしていなかった。

さっき、商品があるのは確認済みだったので、慌てて取りに行った。

 

手に取ると、記憶にある、ターコイズブルーというのだろうか?

幻冬舎文庫独特のあの色なのだが、表紙にはなんの装丁もされていなかった。

えーと、この本で良かったんだよね・・・?

 

「すみません、これをお願いします」

 

店員に商品を渡すと、何か言った。

ぱくぱくと口が動いているのはわかったのだが、

喧噪で、何を言っているのか聞き取れなかった。

というか、発声してなくないか、この人?

(ごめんなさい、よく聞こえなかったのですが・・・)

と、怪訝な顔をすると、

 

「あんた、息してないよ」

 

その瞬間、初めて息苦しさを感じ、ぶはぁー!っと目が覚めた。

いったぁい!とうめくほど、胸がものすごく痛い。

 

すみません、夢オチで。

 

じつは私は、先月発症した病気で、運動が制限され、

そこそこ体力のあった分、運動不足で不眠症になり、睡眠薬を飲み始めたところだった。

 

しかし、睡眠をとってもまったく疲れが取れず、相変わらず動悸と息切れがひどく、

また、ズキズキというレベルで心臓の辺りに常に痛みを感じるようになっていた。

ここ数日は仕事も欠勤していた。

なにかが心にずしりとのしかかっているような不安感があり、

特に自覚はなかったつもりだったのだが、

メンタル面の問題を疑い、心療内科の受診を考えていた。

 

その原因が睡眠時無呼吸症候群だったらしい。

いつもなら寝返りをうったり、目が覚めたりで、

姿勢を変えることで、なんとかなっていたものが、

睡眠薬の服用で、愚直に息を止め続けることになり、

それが、心臓に相当な負担をかけていたようだ。

 

さっそく、病院の循環器科で無呼吸の診察を受けることにした。

 

インソムニアとは不眠という意味らしいのだが、

村上龍氏の著作にインソムニアというタイトルの作品はなかった。

 

今、私はひとりで眠っているので、無呼吸を指摘される機会もない。

って、さみしい女だな!

でも、たぶん、命、拾っちゃいましたね、これ。

さて、憑いているもの、

それは自分の生霊だった、という考察の続き。



細かいことはともかく、この話はすとんと腑に落ちた。

私のコールタールは実体のないものだと、はっきりわかっていた。


それはどうしてか、というと、

自分の中に解決法がなかったからだ。

もし不安や不信が自分の中にあるのならば、

仮定としてでも、解決法があるはずだ。


ものすごく卑近な悩みで恐縮だが、

大金が入ったら、今後は働かずともウハウハだな!とか、

O型上司と両想いだったたら、ヤリまくるぜ!とか。


コールタールでは、そういうプラスのイメージが全くわかない。

というか、万が一そうなったとしても、

それが、自分の中での解決法になっていないのだ。


一生、小金のためにあくせく働くんだ・・・とか、

O型上司が私に振り向いてくれるわけなんてない・・・とか、

過信はしていないぜ、冷静に現実が見えているぜ、

と、自分の怜悧さに酔うといえば聞こえはいいが、

ただただ暗い現状と救いのない未来が浮かぶだけ。


無気力というには、この状況はおかしすぎる。

という、ところまでは自力でたどり着いていたのだ。


ところが「憑き物が自分の生霊」という、概念を与えられた瞬間、

コールタールがぱーっと散って行った。

一生、小金のためにあくせく働くんだ・・・(2回目)とか、

O型上司が私に振り向いてくれるわけなんてない・・・(2回目)とか、

そういう現状は何一つ変わっていないのに。



こういうオカルトめいたことを大声でいう人は苦手だ。



たとえば、辛い目に合っている人に対して、

「乗り越えられる人にしか試練を与えない」

と、したり顔の上から目線でアドバイスをする人とか。

その人は、辛すぎて自らの命を絶つ選択をしてしまった人のことを、

どう思っているのだろうか?

その人には、失敗した人など目には入らないのであろうし、

成功者のセミナーをうのみにしているような、

気持ち悪さを感じる。


だから、私もオカルトを信じろとは言わないが、

どうか、辛い思いをしている場合も、

問題が、自分の中にだけ存在するとは思わないでほしい。


あなたは一人じゃないよ、誰かがあなたを気にかけている、

というのは優しい嘘だ。


孤独は確固とした氷壁のように周りをかこっていて、

自分のことを気にかけている人なんていないのかもしれない。

自分がいなくなっても悲しむ人はいないのかもしれない。

しかし、実際は、人はいろいろなものに影響を受けている。

自分には影響はない、と思うのは傲慢だ。

自己完結しているのも傲慢だ。

自覚的な孤独は謙虚さの欠如だともいえる。


かちっとスイッチが切り替われば、コールタールは散っていく。


オカルトくさいけれど、嘘くさいけれど、

最近あった、自分の中の小さな本当の話。


まぁ、きれいごとを並べても、

メンヘラ気味になり、

会社をさぼった事実な。

さて、タールマン(説明略)時に腑に落ちた考察の続き。


ここで、DIO様が4週ぶち抜きで言うレベルで無駄な趣味である、

ネットサーフォンですYO!


必要な情報は求めてさえいれば、出会うべき時に出会う。


直近でタールマンが絶好調☆になってしまった日、

少しずつではあるが、距離が縮まってきていたはずの野良猫が、

私を見るなり、にゃっと飛び起きて

ぴゅーっと逃げて行った。


私は会社を休むことにした。


O型の上司とは疎遠なので、楽しみもないので、躊躇なく。

えー、もちろん今、仕事が暇というのは計算済みでした。

都合のいいことに風邪をひいてしまい、

嘘だろ?いうほど高熱が出たので、まぁ、しめしめと。

しかもこの時、2日ほど調子が悪かったのだが、

高熱を出すまで、自分の体調が悪いことに、

気づいていなかったというおまけつき。


そこでネットサーフィンですよ。

風邪薬を飲み、大量の水分を摂り、

熱が高いのでクーラーで部屋を冷やし、

毛布にくるまって。

そうだ!非生産的なものが今の自分には似つかわしい!

ひゃっはー!とオカルト的なものを読み漁っていると、

とある投稿が。


それは父親が神父さんだか、牧師さんだかの人の投稿で、

ある日、エンジェルさんをしていた小学生から、

怖い思いをしているのでなんとかしてほしい!

と、いう依頼が父にきた、というもの。


依頼者は小学生4人、担任の女の先生1人。

先生は、エンジェルさんをしていた教え子についてきただけ、

のはずだったが、本当に問題があるのはこの人だった。


投稿者の父がいうには、意志をもった悪霊はそうそういない。

しかし、もしいると、

磁石のように悪霊になりえなかった悪い念のようなものを引き寄せて、

雪だるま式に大きくなるという。


先生にはそれが憑いていた。


依頼者の父は、さりげなく、先生を教会に誘い、

何か月間か、霊はいない、

(細かいことはわからないが、その宗派のスタンスなのだそう)、

ということをこんこんと諭していたそうな。

依頼者はある日、業を煮やして父親に尋ねた。


なぜ、悪霊とやらを払ってやらないのか?


と、いうことだ。

(実際は、悪魔祓いのようなものをするわけではないのだが、

話をわかりやすくするためにこの表現を使ったとのこと)

父親は苦い顔をして言った。



先生に憑いているのは、自分の生霊である、と。




不安定で思い込みの強い人に、たまにいるそうで、

そういう人は負の感情をため込むと、

まわりの悪いものをどんどん引き寄せてしまうらしい。

たちの悪いことに、生きている人の霊で存在がたしかなため、

そうとう強い核になってしまうのだという。


そういう人の結末は・・・。

彼女の悲報を聞いた次の日、

お父様が朝の礼拝から出てきたのはお昼を過ぎていたそうだ。



という、お話だった。

めっちゃ長いな。

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①人が受けているサービスを、

当然、自分も受けられるものと、 期待すること。


②相手に非を突きつけて、

誤りを認めさせたいこと。


③自分が有能であると人に知らしめたいこと。


正しいと思っていたし、そんなつもりもなかったけど、

上の3つ、自分にがっつり当てはまるんじゃないかな。

人にそう思われてるんじゃないかな。


今は、正直、克己する余裕なんてなくて、

人にそう思われてる、というのがけっこうきつい。


ううん、思われても思われてなくても、私って最低だな・・・。

どれも人を見下すのが前提だもんね。

コールタールにまみれて当然だよ。


明日から、自分の高貴な良心に従って。

やりなおしだ。

ものすごくインドア派というか、


①ひとりでいるのが好き

②家にこもりきりが苦にならない、むしろエンジョイ


という、2点をクリアした、

ナチュラルボーンインドア派の私からすると、

ネットサーフィン(死語)で、1日すごすなんてちょろいこと。

むしろJOY。


日頃は、

ひとりで好き勝手やってる→ストレスなどあるはずもない、

と、免罪符のようなものなのだが、
何もかも一人で完結する生活では、

いったん負の感情があふれてしまうと、

小さな手鍋を中華並みの強火力にかけるがごとく、

短時間であっというまに煮詰まってしまう。

手鍋の中身は、真っ黒なコールタール状のものだ。



気持ち的にはバタリアンのタールマン(説明略)のような感じ、だろうか。



頭蓋骨を覆う皮が緊張でびりびりしている。

強度の近視のように目の光がおかしくなっていて、

髪の毛が逆立つ感じ。

頭の緊張に気を取られて、

日常生活が注意散漫かつ無気力。

ちからを抜かなきゃ、と緩めても、

気が付いたらまたびりびりしている。


そういうときは、

ちょっとやそっとじゃ、どうにもならない。

思考も同じ部分をぐるぐるしているし。

こういうときはほんとうに辛い。

まず、自力では全く出口が見えない。


私ごとき小さい悩みしかない人間がおこがましいけれど、

鬱の辛さの一端を味わったような気になる。


何度も入る迷路なのだから、

出口を探すスキルを身につけたい


そう、思うのだが、

いかんせんこの迷路の出口は毎回違う気がするのだ。


っていうか、

これをしていれば迷路から出られる、

迷路に入らなくて済む、

というのは、もう一種の信仰ではないかと思う。


しまった、コールタール時の説明が長くなってしまった。


                             vol.2へ

姿かたちだけではなく、

眩しいような美のオーラに、

ほんのすこしだけ物憂げなものが漂うところも。


色気とかセクシーとか、一言では表せない、煙るようななにか。

花の香りに色彩があればそんな感じかもしれない。

薄いベールの向こうに、すっと佇んでいるシルエット。

その奥にあるものをもっと見たい、近づきたい、

と、欲望をかきたてる。

そんなやり方で、他人の視線を奪ってしまうたたずまいも。


モニカ・ベルッチと叶恭子さん。

ものすごく最近の音楽にうとい私なのだが、

最近、三代目JSBとBIGBANGのMVを立て続けに見た。



まず三代目JSBで、その次がBIGBANG。



三代目JSBを見て、あーかっこいい!

日本の男の子たち、捨てたものじゃないな!と、いう感想。


何年か前のK-POP全盛期のころは、

韓国の男の子たちの華やかさと鍛え上げられた肉体にくらくらしつつも、

日本の男の子もがんばってー!と思わずにはいられなかった。


マッチョは、もう完全に私の個人的なフェチであるし、

むしろ日本人の女の子の好むアイドル、

と、いうテンプレートでもあったのだろうけど、

日本の男の子たちはスキニーで、

薄っぺらい胸板や、ジーンズをひっかけた腰はあまりに細くて、

私より細いんじゃないか・・・という。

自分より、質量も重量もある肉体に組みしかれたい私としては、

全く、性的対象という感じではなかった。


(ここ数年では日本でも、

少し厚めの筋肉が流行してきて、うれしい限り)


その次にBIGBANGのMVを見たのだが、

彼らは全然照れていなかった。

美しく化粧し、華やかに装い、

ほめ言葉なのだが、

宝塚的というか、腐女子向けというか、アニメ的というか、

そういうものを貪欲に追及していた。

性的な表現を避けるどころか、

性的対象になることをむしろ意図していたのではないかというほど、

「かっこいい」「クール」「セクシー」をこれでもかと表現していた。


ふたつのグループを比べるのは、

対象となるマーケットが違うので、本来は比較の土俵には上がらない、

と、いうのは承知の上。


三代目JSBは文句なしにかっこ良かった。

MVも映画のように美しく凝ったもので、

これぞ、男!という感じで、動物性の香水のように、

男の人の色気がたちのぼっていた。


しかし、露骨すぎるものを野暮とする日本的な表現に比べると、

BIGBANGは洗練されつつも饒舌だった。

香水で例えるなら、BIGBANGのMVは、

純度99.9%のウォッカレベルのようなものを浴びるようなもの。


さりげない香りが好きな人もいるし、

むせかえるような香りに窒息したい人もいる。

どちらも作り手の力量が試されるおもしろいグループだと思う。


どちらの国にも、素敵な男の子たちがいて、

己の佳しとするものを、

表現しているというのはなかなかいいことだと思う。

そしてそれを比較できる贅沢。

最近、日韓関係がギスギスしているが、

韓国の情熱や饒舌さは、素敵だと思う、と言えるうちは、

わりと平和なのだ。

お互い様なのだけど、
人前では、必要以上によそよそしくて、
かなりぶん殴ってやりたい。

でも、避けられてる気もするし、
二人になってもそうなのかと思うと、
泣きたくなる。

冷たくしても、
好きになった方が辛いってほんとだ。

ひー。なんじゃこの無駄な時間。

孤独は相対的なものだ。

一人でいると、感じないものなのだなぁ、とつくづく思う。

いつもの車が出払っていたので、

別の部署の社用車でお出かけした時のこと。


往復3時間ほどのドライブに備えて、

持ってきた自分の音楽を聴いていたのだが、

ふと見ると、CDが何枚か置いてある。


今日の車は営業部の車なのだけれど、

担当者ごとに、1台ずつが割り当てられているので、

私物がおいてあるのだ。


この日の車の担当者は、営業部のKさん。

25歳なのだが、若くで結婚してすでに2児のパパさんだ。


何が入っているかわからない、

CDのスイッチを入れると、

ブルーハーツだった。


ちゃんと聞くのは、何年振りだろう。

懐かしい。


私は彼らのCDは持っていないのだが、

けっこう覚えているものだなぁ、と、

ところどころ、くちづさみながら聞いていたのだが、

何曲目だかの、出だしのギターでやられてしまった。

どっと押し寄せる感情の奔流に胸がつまる。


それは、当時付き合っていた男の子と、

ウォークマンのイヤホンをひとつづつ使って、

いっしょに聞いた曲だったのだ。


今となれば、一番好きだった人ではない、

最後に付き合った人でもない彼のことは、

顔も、名前さえも、

忘れかけていたというのに。


吉田秋生の櫻の園という作品の中で、

4人いる主人公のお姉さんが、

「ほんとうに好きだったの。忘れたら女じゃないわ」

と、好きだった人のことを語るセリフがあるのだが、

まさにそんな感じ。


サングラスをかけていてよかった。

アイラインもマスカラもあったもんじゃない。

悲しくもないのに、涙がぽろぽろ出た。

でも、こういう感情の揺さぶられ方は、女冥利に尽きる。



どうか、束の間、人生が重なったあの人の。

彼の人生が幸せなものでありますように。