「死んだら仏になる」とか、「供養すれば死者も冥界で救われる」とか…
だれも、そんなこと信じちゃいないのに、自分の身内とかを供養する段になると、突如信じだす…
そんなものは、葬式仏教の金儲けのためのセールストークとだれしも思っていることだろうに…
都合や状況で、信じたり、信じなかったりできる…って、いったいこれは何なのだろう?
坊主も坊主かしらないが、このインチキ仏教を支えているのは、被害者ズラしている檀家衆である。
そこのところが、今日的である。
「ユダヤ」が陰謀を企んでいるのが事実だとしても、それにホイホイ乗っかって手を下しているのは人民なのである。
「被害者」が、それ以上に「加害者」なのである。
「私は被害者なのに!」と言って、この人たちは反省しない。考えない。責任も取らない。
寺は、檀家が運営して、住職はそこにある意味雇われている…というのが本来の姿だが、
檀家が機能しているようには思えない。
ここがまた、不正選挙で、民主主義が機能していないことと重なる。
そして、檀家は、坊主に先祖供養の呪術や上手な「ありがたい」読経を期待するのであって、
仏教の説法なんぞ坊主がしようものなら、目を剥いて刃向かう者すらいる。
「こっちがカネをはらっているのに、何を偉そうに無礼者!」というような感じである。
僧は、法を説くのが本来の仕事で、「拝み屋」ではない。が、ほとんどの檀家衆が勘違いしている。
「拝み屋」だったら、それこそ「ユダヤ」タルームートやカバラでもやったらいいのだ…
多くの日本人は、神道だろうと仏教だろうと、卑弥呼のやったであろう呪術と区別がついていない。
神や仏を信じているのではなく、まじない、呪いを信じているのである。
神主も坊主も、まじない師、呪術師として、一般国民は認識している。
こういうところをみても、日本に神や仏を信じている者はなく、したがって「神も仏もない」世の中である。
そして、実は…そのまじないの効果すら信じていないのだが、仕来りやなにやらを気にする…
矛盾である…
ユダヤ人のヒトラーがユダヤ人抑圧みたいな話である。
信じていない連中が、その仕来りにうるさく、細かい…
信じていないんだったら、気にするなよ…でしゃばるなよ…不信心者めが!!
神も仏も信じていない連中にかぎって、よく拝むのである…
常に”いいこ”を演じていないと不安という…PTSD症候群…
日本人は、自分の言うことをきいてくれる”都合のいい神様”をとにかく大事にする…
「願いを叶えてくれる」となると、実に気前がいい…
そして、払った分に相当する代価を求めているし、期待している。
「仕事をまわしてくれ」「身内を就職させてくれ」…
そういう願掛けをして、それを叶えてくれるなら、みんな「神様」「仏様」である。
だから、その「神様」が、政治家だったり、役人だったり、ヤクザやウヨクだったりする…
そして、願ったのだから…カネ払ったのだから…「願いはかなう」と期待する…
日本人の多くが、こういうものを「宗教」と信じている、「政治」と信じている…なんたる外道…
あの世のことなどわからないのに、どうして「故人も喜んでいるでしょう」などと言えるのだ?
まあ、近しい者なら、確信することもあるかもしれない。だが、そうでない者まで似たことを言う…
「キレイゴト」を言い、「予定調和」を説き、「みなさんハッピーです。それを信じます、祈ります…」
そのご先祖様への態度が、そのまま被災地への態度と重なる…
適当なことを言いやがって…、見てきたようなことを言いやがって…
人々の、そうした「期待」は、いつしか「権利」になっていく。
自分は当然、かくかくのものを受け取れる、という期待があり、それが果たされないと…
「約束が違う!!」と激高するのである。
毒妻者が、夫を裁くのも、これである。
「当然、家事育児を手伝うべきだ」とか…
「当然、記念日は覚えていて、相応の行事やプレゼントがあるものだ」とか…
これらは、初め「願望」であった。
「自分が愛されている」のだからと… 「願望」は「期待」に昇格する。
そして、子どもが生まれるなどすれば… 「期待」は「権利」に昇格する。
「当然の権利」だから、「あって当たり前」…
当然、感謝も喜びもない…餓鬼のごとき貪りの世界がそこにある…
そして、感謝どころか、「権利が侵害された!」と訴えられ、裁かれるまでになる…
かくして、初め「願望」だったものが「血の掟」にまで昇格するのだ。
かくして、妻は悪魔と化す…(もちろん、逆のケースもある)
「当然の権利」…日本人は、このことばすらはき違えている…
だから、「国民の権利」も、守られなくて当然と言えよう…