1993年に厚労省の検疫課課長だった宮本政於氏が、『お役所の掟』を出して霞が関の赤裸々な姿が世に晒されたが、結局、国民の理解も行政の改革もなにひとつ進まず今日の亡国を迎えている。
いったい日本国民は何をしていたのか?それで「働いた」などとよくも言える。
何百何千もの公務員が宮本氏と同じ風景を見ていながら、何も変わらない、共通認識もないとはどういうことなのだろう?
いや、もとい。北川まさやす元三重県知事などがテレビに露出するようになった頃から、窓口の対応などが民間並みに丁寧になったから「何も変わらなかった」わけではない。
しかし、それは警察や裁判所を見ればわかるように「みんなから見えるところ」だけで、中枢の伏魔殿は情報隠蔽が強化され、温存されてきた。
現場の職員などはますます過重労働になる一方、権力中枢は裏金で砂金嵐が吹いている。
もちろん、現場だって無罪ではない。最近特に彼らにはビジョンがない。ロボットになっている。
いくら一生懸命働いたって、ロボットでは公僕足りえていないのであって、給料ドロボーである。
民間同様に、市場原理で値段をつければ公務員の給料はよくて今の半分、通常なら10分の1であろう。
漢帝国が高祖の死後、呂氏に乗っ取られそうになるが、陳平はじめ旧臣がチャンスを待って取り戻した。
公僕というのは、常にこのようでなければいけない。
また国民は、そうした忠臣を支えねばならないのであり、見殺しにしてはいけない。
そのためには、野田が忠臣に見え、小澤が奸臣に見えているようではいけない。
いやいや、小澤とて100%信用するのは危険だ。要はテレビで見たまんまを鵜呑みにしないということだ。
( ´艸`) さて、ときに宮本氏のプロフィールを確認したら『在日日本人』なんて本を出している。
( ^∇^ )/ だから当ブログがこの本を約20年ぶりに紹介するというのも縁のないことではないのだろう。
そして、宮本氏の『お役所の掟~ぶっとび霞が関事情』は英文版が出ている(スゴッ!)。
(-"∀"-;)b その序文に伊丹十三氏が特別寄稿しており、これがなかなかわかりやすい。
( ゜∋゜)/ これをまず紹介しちゃいましょう!
【特別寄稿】
『(前略)1854年、アメリカは、300年の長きにわたり外国に対して国を閉ざしていた日本に開国を強制した。そのころ世界は列強による植民地分割の時代だった。
開国した日本も遅ればせながら列強の仲間入りを目指した。
そのためには国家の急速な近代化が必要であり、日本は国際社会かに受け入れられるため、西欧に倣って憲法を制定し、法律を整え、天皇を君主とする議会制民主主義を発足させたのであった。
列強に追いつくため「富国強兵」の策が採られた。
この国策を効率よく短期間で実現するためには、政府、すなわちエリート集団たる官僚が蒙昧なる国民を強力に指導し、国家デザインにしたがって資源や人材を有効かつ重点的に運用する必要があった。
このような支配の形態は当然官僚に絶大な権限を与えることになるが、その点に関しては、長年大名や侍の支配下にあった日本の国民たちは、いわば権力に飼いならされていて、官僚支配を自然に受け入れたようである。
以上のような状況でスタートした日本の官僚制は、当然のこととして次のような前提をもつにいたった。
すなわち「民は愚かであって指導者を必要とする」、また「愚かな民が選んだ代議士もまた愚かであり、陰で官僚が支えてやらねばならない」というものであって、これは今日でも全く変わっていない』
┐( ̄∀ ̄)┌ いやあ、ユダヤ議定書そのまんまの統治思想ですな!!
(-з-)b 「民が愚か」で「指導者を必要とする」のは、事実ですわ!
(`(エ)´)ノ しかし、その「指導者」は、もっと「愚か」なのですわ!
(´∀`) 特に「官僚」がね・・・
( ´艸`) 「陰で官僚が支えてやらねばならない」wwww。「神の見えざる手」というわけですな?
(´0ノ`*) そこで韓非子は「法による統治」を唱えたわけですが、まあ、現実は「力による統治」にどうしても行ってしまうようですなあ・・・。
(。・ε・。) 「権力」とか「権限」とかは、ピストルであり、ナイフなわけです。
(-""-;) 法律をつくれば問題が解決するという考えは、
役人にいっぱいピストルやナイフを与えれば問題が解決すると考えるのと同じことです。
川・ε・川 法律がルールだなんて勘違いしている人は、早急に認識を改めていただきたいものです。
(-。-;) さて、続きもボチボチアップしていきます。(θωθ)/~んでわ、でわ!