罪と人間は、この世にあるかぎり、分かちがたく結びついています。
よって「罪を憎んで人を憎まず」を試みても、もうここが限界ではないのかという境界があるのだと思います。
とはいえ、その「境界」というのは、どこにあるのでしょうか?どこに設定すべきなのでしょうか?
けっきょく、善も悪も相対的なものであり、確実なものはなにひとつないとするなら、死刑という刑罰に何の正当性があるでしょうか?ただ人を殺したという事実しかそこには残りません。
「秩序」がどうのと言う人がいます。
死刑にしなければおさまらないということはあるでしょう。しかし、それは政治的判断で死刑にするのであって、司法の放棄に外なりません。被告人は自らの罪によって死刑になるのではなく、他の連中が「殺せ」と言ってきかないから死刑になるのであって、刑事責任以外の責任を取らされるのです。
それはつまり、生贄にほかなりません。
被告人に大衆をそこまで発狂させた責任があるのかもしれません。しかし、被告人が原爆投下者、被害者は被爆国という場合、あるいは、被告人が村人たちを虐殺した日本兵、被害者はその遺族としたときに、死刑は執行されるべきなのか、それともしてはならないのか?
私は死刑制度を否定しませんが、死刑という刑罰の執行を正当化することはきわめて困難であるという思いを日々強めています。それは論理的な帰結です。1+1は3にはなりようがないのです。
東京裁判を「不当だ」と言っているその口で、「死刑は賛成だ」と叫んでいる方々はどういうオツムの構造をしているのかと疑います。矛盾に気づきませんか?それが気持ち悪くないですか?
この章は、「神の裁きはなぜ生ぬるいのか」の問題意識を引き継いでいます。
いやあ、罪だけスパっと切ることができればよいのですが、人も一緒に切らねばなりません。
・・・となると、多くの場合、斬るわけにはいかなくなってしまうのです。