先週の木曜日から日曜日まで(道院の稽古も武専も休んで…)、
インストラクター(?)の仕事で福島県に出張していました
連日、主として屋外でのワークをおこなっていたのだが、
2日目の昼食時に、会場を提供してくれた社長さんが、
『芋煮』
を振舞ってくださった
秋空のもと、受講者や会場スタッフを合わせ、30数名で一緒に食べた『芋煮』は滋味に溢れ、美味しかった~
(社長さん! ご馳走さまでした)
「食」=「人を良くする」とはよく言ったもので、
人は誰かと一緒に食事をするだけで、コミュニケーションが深まる傾向はたしかにある
とくに「同じ釜の飯」を食べたり、ひとつの鍋をみんなで一緒につついたときは、より一層その効果が高まるのは間違いない
ちなみにワタシは10代のとき、いわゆる集団生活をおこなっていた時期が少々あり、
その経験から、「同じ釜の飯」を食うだけでは、他人と無条件に仲良くなれないことも、身をもって知っている
しかし、今になって思い返せば、本来かなり苦手なタイプの人間とも、何とか折り合いをつけて、日々を過ごすことができたのは、、「同じ釜の飯」を食うことの大きな効能だったかもしれない……
そういえば、
「同じ釜の飯を食う」ことは、そのまま「運命共同体」を意味する
と、なにかの本で読んだ記憶がある
つまり、狩猟でも収穫でも、とにかく食物を入手できたらみんなで分かち、
食料が手に入らないときは、みんなですきっ腹をかかえてひもじい思いをし、
美味しければ共に喜び、食べ物が痛んでいれば一緒に腹を下し、食べ物に毒が混入していれば、一緒に……
それが家族を含む、共同体の原点だということ
かつて、開祖は、
「いいときは一緒にいい目をしよう。でも組織だからまずいときも必ずあるだろう。そのときには、一杯のおかゆさんを、半分ずつ分けて食べたらいいじゃないか」
といって、鈴木義孝先生(総本山少林寺 前代表)を口説き落として、本山に入山させたという
飽食の時代に生まれ育ったワタシには、長らく「おかゆを半分ずつ…」とおっしゃられた開祖の心情と、ほだされてしまった(?)鈴木前代表の胸のうちが、いまいちピンと来ていなかったのだが、
この歳になって、ようやく少しわかりかけてきたような気がする
いまさまざまな分野で、コミュニケーション能力の低下が問題視されているが、
コミュニケーションの問題は、頭で考えて何とかなるものではないようだ
武道の稽古や、食事を通して、身体面からアプローチしないと、根本的な解決は図れないだろう
我孫子道院では、5月の開祖デーでのBBQ、夏合宿、12月の納会などで、
拳士同士が集まって会食する機会を設けているが、
来年は達磨祭に合わせ、秋の芋煮会も実施して
より一層、連帯力を高めるよう検討してみようと企んでいる!?
本日の「身体の知能指数」 (PQ=physical quotient) 『105』