【京都上洛2015】①稲荷山・地蔵院・本能寺跡 | 螢源氏の言霊

【京都上洛2015】①稲荷山・地蔵院・本能寺跡

超今更だが、8月15日~16日の京都御用のことを簡単に記事にしたい。

詳細に書いたら大変なので、ちょうど記憶が薄れてきた今がベストタイムだからだ(笑)



ZERO閣下 と鬼将軍。



京都御用とは、2011年に始まった私と閣下の京都でのサミットである。

昼は神社仏閣めぐり、夜は繁華街での飲みだ。ちょうど7月の祇園祭の時期だった。



2011年の初京都サミット。




2012年 高2→総裁 と閣下の友人も。



2013年 高3→鬼将軍、閣下、総裁。


2014年 大1→予定が合わずに中止。

そして今年2015年から8月に敢行することになった。大学は8月から夏休みだからだ。今回、総裁は残念ながら体調不良により不参加になった。



まずは、伏見稲荷から。


朝10時ごろ、心地よい暑さが包み込む京都へ上洛した。

この時、閣下はまだ東京だったが、私は早々に潜伏することにした。



伏見稲荷神社。


2011年にも来たが、今回は以前とは違う場所へ行く。


ただ、信念だけで歩き続けていた。



無数の社が立ちならぶ急勾配を踏みしめていく。何としてでも成し遂げたい使命があるからだ。


伏見山山頂へ初登頂。


世界の人種が集まる山頂。ここから少し離れた日陰に、それは佇んでいた。



石宮大神(いしのみやおおかみ)。



そう、ここがアベノ封印解除記 で散々に紹介した石宮龍王のボス社である。

別名は眼力社(がんりきしゃ)。



反りギツネから冷たい水が出る。



魚眼レンズを使い、石宮大神のプロモーションムービーを撮影した。
来た証拠。


私が総裁の代理になり参拝するという御用だったのだ。使命感だけでなく、純粋に前々から来たかったので満悦。



この社だけ静かなのだ。



山頂に戻り見晴らしの良い店へ。

京都が一望できる。私がゲリラなら一気に京都制圧ができそうだ(笑)


ソバを食す。ほどよい辛さのワサビ。

代金を払おうと思ったのに、何度も店員に無視されたので立ち去った(笑)


下山。
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私は千本鳥居が大嫌いだ。こんなにたくさん作るとは正気の沙汰とは思えない(笑)



京阪を経て、四条大橋に到着した。



京は空が近い。


人の喧騒と川の音が同時に聴こえる。



阪急嵐山線で上桂まで来た。



伏見稲荷は京都の東側だったが、今度は西側の嵐山の近くまで来た。

もちろん目的あってのことだが、伏見桃山城と迷った末、ここを選んだ。



古墳の雑木林があった。



すると、いつしか辺りを涼しげな竹林に覆われた。



運ばれたかのように目的地に着いた。


木陰ではあるが、ここは日向よりも気が明るかった。


地蔵院(じぞういん)



我が祖、細川頼之(ほそかわよりゆき)公が建立した寺である。

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細川家と室町幕府の繁栄を築き、足利義満を育てた人物である。この人がいなければ金閣寺はなかったレベル。


一度、戦乱で荒れたのが嘘のような造形美である。


そんな先祖の墓がここにはあるので、前から参りたかったのだ。


墓だ!と思ったら石碑だった(笑)

一応、一礼し、頼之公の軌跡というか思い出のようなものを偲んでいた。


本堂。



ここに頼之公の木像があった。


頼之公は楠木正儀と仲が良く、南朝と講和して戦乱の終結に一役買った。

私が今、南朝の子孫の人 と仲が良いのも因果に思える。


リアル墓。



木の根っこが墓だが、本当にこれが墓か!?と思った(笑)


「武蔵守頼之」という石碑が見える。この大木に触れてみた。先祖が幹で、子孫が末端の葉のようなものか。


現方丈という建物が見えてきた。

地蔵院は夢窓疎石が開山し、一休さんが修行していたこともあるそうだ。

ちなみに一休さんは楠木正儀の孫という説がある。


拝観料を払い、入った。


ここは撮影NGだが、頼之公より特別に許可を貰ったのでOKである(笑)


頼之公が愛した庭が現れた。


しばらく草座布団に座り、ぼーと瞑想した。ここは本当に落ち着く。

ストレッチすると格別に体が柔らかいので、イヤシロチなのだろう。



苔が大地のよう。


京都の縮図にも見える。甘く澄んだ苔の香りと、蚊取り線香が混ざり合い、不思議なアロマ効果を発揮した。


懐かれているような有難さを感じる。何もせずにここで過ごしたい。


自然を見ることで脳が活性化する。


作業や創作をすれば捗りそうだが、先祖もここで戦略を練ったのだろうか。

だが、自他一体のような感覚になり、何もしなくていいとも思えた。



何もかも大丈夫な気がする。全てはうまくいっている。


先祖もここで瞑に耽ったのだろうか。頼之公は良いセンスをしている(笑)



「十六羅漢の庭」というらしい。



羅漢とは悟りを開いた聖者。閣下のような人だろうか。


結局、2時から閉館の4時半まで留まっていた。
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閣下はまだ京都に来られていなかったが、待ち合わせ時間は決めてないので遅刻ではない。



閣下に嵐山にいますとメールしたら、返信が来た。



なんと閣下は「嵐山に行って下さい」とメールしようと思ったそうだ(笑)

これぞハイヤーセルフの導き、幽玄の智というやつか(笑)



四条の市街地まで戻ってきた。



伏見稲荷も含めると半日で、直線距離で約20キロ移動したことになる。


次の目的地は本能寺跡。



現在の本能寺には行ったことがあるが、1キロ以上離れた全く別の場所。

本能寺の変の跡、秀吉によって移転させられたそうだ。


信長茶寮という店があった(笑)



閣下と本能寺の御用をしたかったが、メールで「早く飲みたいですね」と仰っていたので、先に1人で見に来た。


本能寺跡


この石碑の後ろは、奇しくも消防署である(笑)


実際の場所は石碑でなく、この街自体が本能寺だった。

ここは油小路通と蛸薬師通の交差点。


簡単な再現図を作ってみた。

この通りは全て堀だった。


しかも寺というより城のような建築だったらしい。


そりゃ織田信長が寝泊まりするぐらいだ。ここを守る役目だったのに明智光秀が急襲したのが本能寺の変だ。




やはり現地に来て初めて、敷地の広さがわかる。

本能寺が炎にゆらめく情景が浮かんだが、心境は「信長さま~!!」という感じだ(笑)


昨年、描いたマンガ。



帰り道で南蛮寺跡に気づいた。


本能寺から50mの場所にある。寺というよりイエズス会の教会だった。



閣下との待ち合わせ場所である京都タワーへ向かった。



今回の写真はこの記事からのセレクトである。