【京都上洛2015】①稲荷山・地蔵院・本能寺跡
超今更だが、8月15日~16日の京都御用のことを簡単に記事にしたい。
伏見稲荷神社。
2011年にも来たが、今回は以前とは違う場所へ行く。
ただ、信念だけで歩き続けていた。
無数の社が立ちならぶ急勾配を踏みしめていく。何としてでも成し遂げたい使命があるからだ。
伏見山山頂へ初登頂。
世界の人種が集まる山頂。ここから少し離れた日陰に、それは佇んでいた。
石宮大神(いしのみやおおかみ)。
代金を払おうと思ったのに、何度も店員に無視されたので立ち去った(笑)
下山。
古墳の雑木林があった。
すると、いつしか辺りを涼しげな竹林に覆われた。
運ばれたかのように目的地に着いた。
木陰ではあるが、ここは日向よりも気が明るかった。
地蔵院(じぞういん)
我が祖、細川頼之(ほそかわよりゆき)公が建立した寺である。
細川家と室町幕府の繁栄を築き、足利義満を育てた人物である。この人がいなければ金閣寺はなかったレベル。
一度、戦乱で荒れたのが嘘のような造形美である。
本堂。
ここに頼之公の木像があった。
リアル墓。
地蔵院は夢窓疎石が開山し、一休さんが修行していたこともあるそうだ。
ちなみに一休さんは楠木正儀の孫という説がある。
本能寺跡
この通りは全て堀だった。
詳細に書いたら大変なので、ちょうど記憶が薄れてきた今がベストタイムだからだ(笑)
ZERO閣下
と鬼将軍。
京都御用とは、2011年に始まった私と閣下の京都でのサミットである。
昼は神社仏閣めぐり、夜は繁華街での飲みだ。ちょうど7月の祇園祭の時期だった。
2014年 大1→予定が合わずに中止。
そして今年2015年から8月に敢行することになった。大学は8月から夏休みだからだ。今回、総裁は残念ながら体調不良により不参加になった。
伏見稲荷神社。
2011年にも来たが、今回は以前とは違う場所へ行く。
ただ、信念だけで歩き続けていた。
無数の社が立ちならぶ急勾配を踏みしめていく。何としてでも成し遂げたい使命があるからだ。
伏見山山頂へ初登頂。
世界の人種が集まる山頂。ここから少し離れた日陰に、それは佇んでいた。
石宮大神(いしのみやおおかみ)。
そう、ここがアベノ封印解除記
で散々に紹介した石宮龍王のボス社である。
別名は眼力社(がんりきしゃ)。
来た証拠。京都が一望できる。私がゲリラなら一気に京都制圧ができそうだ(笑)
ソバを食す。ほどよい辛さのワサビ。
代金を払おうと思ったのに、何度も店員に無視されたので立ち去った(笑)
下山。
阪急嵐山線で上桂まで来た。
伏見稲荷は京都の東側だったが、今度は西側の嵐山の近くまで来た。
もちろん目的あってのことだが、伏見桃山城と迷った末、ここを選んだ。
古墳の雑木林があった。
すると、いつしか辺りを涼しげな竹林に覆われた。
運ばれたかのように目的地に着いた。
木陰ではあるが、ここは日向よりも気が明るかった。
地蔵院(じぞういん)
我が祖、細川頼之(ほそかわよりゆき)公が建立した寺である。
細川家と室町幕府の繁栄を築き、足利義満を育てた人物である。この人がいなければ金閣寺はなかったレベル。
一度、戦乱で荒れたのが嘘のような造形美である。
一応、一礼し、頼之公の軌跡というか思い出のようなものを偲んでいた。
ここに頼之公の木像があった。
頼之公は楠木正儀と仲が良く、南朝と講和して戦乱の終結に一役買った。
私が今、南朝の子孫の人
と仲が良いのも因果に思える。
リアル墓。
木の根っこが墓だが、本当にこれが墓か!?と思った(笑)
ちなみに一休さんは楠木正儀の孫という説がある。
拝観料を払い、入った。
だが、自他一体のような感覚になり、何もしなくていいとも思えた。
ここは撮影NGだが、頼之公より特別に許可を貰ったのでOKである(笑)
頼之公が愛した庭が現れた。
しばらく草座布団に座り、ぼーと瞑想した。ここは本当に落ち着く。
ストレッチすると格別に体が柔らかいので、イヤシロチなのだろう。
苔が大地のよう。
京都の縮図にも見える。甘く澄んだ苔の香りと、蚊取り線香が混ざり合い、不思議なアロマ効果を発揮した。
頼之公が愛した庭が現れた。
しばらく草座布団に座り、ぼーと瞑想した。ここは本当に落ち着く。
ストレッチすると格別に体が柔らかいので、イヤシロチなのだろう。
苔が大地のよう。
京都の縮図にも見える。甘く澄んだ苔の香りと、蚊取り線香が混ざり合い、不思議なアロマ効果を発揮した。
作業や創作をすれば捗りそうだが、先祖もここで戦略を練ったのだろうか。
結局、2時から閉館の4時半まで留まっていた。
閣下はまだ京都に来られていなかったが、待ち合わせ時間は決めてないので遅刻ではない。
これぞハイヤーセルフの導き、幽玄の智というやつか(笑)
現在の本能寺には行ったことがあるが、1キロ以上離れた全く別の場所。
閣下と本能寺の御用をしたかったが、メールで「早く飲みたいですね」と仰っていたので、先に1人で見に来た。
本能寺跡
ここは油小路通と蛸薬師通の交差点。
この通りは全て堀だった。
しかも寺というより城のような建築だったらしい。
そりゃ織田信長が寝泊まりするぐらいだ。ここを守る役目だったのに明智光秀が急襲したのが本能寺の変だ。