1972年1月4日 加藤能敬の「敗北死」 |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
(加藤は悲しい顔で、力なく首を振り続けた)
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加藤能敬(よしたか・享年22歳)
【死亡日】 1972年1月4日
【所属】 革命左派
【学歴】 和光大学
【レッテル】 裏切り者
【総括理由】 受動的、啓蒙主義的、女グセ、小嶋和子とキスして神聖な場をけがした
【総括態度】 「総括できる日も近い」→「逃亡しようとした」
【死因】 凍死 or 衰弱死

 縛られていた加藤は、夜中に、目隠しを外そうとしたり、足を動かしているのを、見張り番の植垣と山崎に目撃され、森に報告されてしまった。逃亡に神経質な森がこれを許すわけはなかった。

■「小嶋の望むヘアースタイルにしてきたんでしょう」(永田洋子)
 1月4日の朝起きると、森氏は中央委員の者に、「加藤は夜中に目隠しをとろうとしたり、あたりをキョキョロ見たり、足でまわりのものを動かそうとしたりしていた。全く総括している態度ではない。逃亡を考えてるに違いない」と加藤氏を批判したあと、「加藤は、小嶋と違って、小屋に上げられたり総括を聞かれたのに安心しているのじゃないか? 厳しい総括要求が課されていることを知らせる必要がある。そのために殴る必要がある。いろいろ聞くべきこともある」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 永田は、加藤が、釈放された後、榛名ベースに来る前に美容院へ寄ったことを批判した。

 「途中で美容院へよりパーマをかけてちぢれた髪の毛を伸ばしました。それは、逮捕されてパーマをかけていることが権力に知られてしまったからです」といった。排外的な不信に陥っていた私は、山岳に危機感をもちながら美容院に行ったということが理解できず、
 「山を使うのは危険だと思っていながら、すすんで山に戻らず、美容院に行ったのはどういうわけ」と怒り、「小嶋の望むヘアースタイルにしてきたんでしょう」と決めつけた。加藤氏は、「違います」と答えたが、私は信用しなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

■「逃亡しようとしていたんだろう」(森恒夫)
 「夜中に体を動かそうとしたのはどういうわけなんだ」と聞くと、加藤氏は、「亀頭が痛いからです」と答えた。私は、「キトウ」とは何のことかわからなっったので他の中央委員に、「キトウってなあに。何のこと」と聞くと、森氏らは、これに答えないまま、「ふざけたことをいうな!」といって加藤氏を殴り始めた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 このあと、森に執拗に、「逃亡しようとしていたんだろう」と糾弾され続けた。

 加藤氏は、その度に、「違います。そんなことはありません」と力のない声で答えていたが、途中から悲しい表情で黙って首を振り続けた。最後に森氏は、「加藤は総括していると思ったが、小屋の中に入れてからは元に戻ってしまった。加藤を立たせて縛れ、逃げられないように髪を切れ」といった。これらも中央委員会で確認したことではなかったが、直ちに実行された。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

■「何で総括をしないで死ぬのよ!」(永田洋子)
 私は、山崎氏と土間にしゃがんで朝の一服をしながら話をしていたが、しばらくして、加藤氏が死んでいるのに気がついた。「大変だ!死んでるぞ!」と叫ぶと、指導部の全員が土間にすっ飛んできた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 それからしばらくすると、誰かが兄が死んでいることに気づき、森たちに報告した。私たちは、兄の周りに集った。兄は小屋の入り口から入ってすぐに土間と、その奥の板の間の間の境にある柱に、立ったままの状態で縛り付けられていた。土間の中央にダルマストーブが置かれていたので、少しは暖が取れるだろうという永田たちの「温情」だった。

 柱に背をつけ、後ろ手に縛られた兄は、頭を垂れて青白い顔をして息絶えていた。永田が兄の体を揺さぶり、「何で総括をしないで死ぬのよ!」「頑張りきらないで絶望するから死んじゃうのよ」などと取り乱したようなそぶりで叫んだ。

 私は兄の骸から少しはなれたところからその様子を見ていたが、涙が溢れて止まらなかった。私は無残な兄の姿を見たくはなかったし、兄の死を確認したくもなかった。弟は泣きじゃくっていた。

 永田が私に近寄ってきた。そして方に手を置いて、「泣きたいだけ、泣いていいのよ」と言いながら自分の肩に頭を付けさせようとした。私は感情を必死に押し殺し、永田の呼びかけにも一切答えなかった。体を硬くして、永田の慰撫行為に無言の抵抗をしたが、私にできることはそれが精一杯だった。

 兄の遺体は、小屋の床下に移された。やはり「敗北死」とされた。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)

■「こんなことやったって、今まで誰も助からなかったじゃないか!」(加藤三男)
 三郎君が突如、「こんなことやったって、今まで誰も助からなかったじゃないか!」と泣き叫んで、小屋の外へ飛び出していった。(中略)

 ところが、しばらくして彼が戻って来ると、永田さんが彼の手を取り、自分も涙を流しながら、「能敬は自ら死を選んで死んでいったのよ。あなたたちは兄の死を乗り越え、シッカリ総括して立派な革命戦士にならなければ駄目よ」などと言って、彼を宥めてしまった。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 「三郎君」というのは加藤兄弟の三男の仮名である。

■「逃げようとしたことがばれて、絶望して死んだ」(森恒夫)
 中央委員はコタツに戻って、加藤の死について討議を始めた・・・とはいっても、「敗北死」の理由づけを確認するだけである。

 森氏は、さっきまで元気だったのに急に死んだことを強調し、加藤氏の死を、「加藤がこれまで元気だったのは、逃げることが支えになっていたからだ。だから、逃亡しようとしたことを我々に指摘されて絶望し、いきてゆく気力を失って死んだのだ」と総括した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 事態の変化に応じて、こうした解釈がすぐ創造できることが、森がトップにいる理由である。逆にいえば、指導部を含む他のメンバーは、思考停止に陥り、森の解釈を待つばかりになっていた。

 この解釈は、永田によってメンバーに伝えられた。

 永田さんの説明になるほどと思った。そして、加藤氏の死因を絶望したことによる精神的なショック死と解釈し、この段階で、初めて「敗北死」という規定が正しいのだと確信した。それまでの私は、「敗北死」という規定がよくわからず、総括できずに殺されたと思っていたのである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 私は、毎日の実践に集中し、殲滅線をやりぬくことによって、同志を死なせてしまった責任をはたしていこうと思うことしかできなかった。以降、私は、同志が死んでいく度にこうした思いを繰り返し、皆と同様、ひたすら日々の作業に集中していくことになるのである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

■「永田は自分を脅かす存在をリンチにかけた」(加藤倫教)
 兄の死に立会い、「敗北死」と解釈された加藤能敬の弟2人の気持ちはいかばかりであったか。
 次男と三男は、兄の死後、1度だけ2人きりで会話を交わしたことがある。

 私は弟に向かって、「兄貴がこんなことになるなんて・・・。われわれは、おかしいんじゃないか」と問いかけた。そのとき、私の頭の片隅には、「離脱」という言葉も浮かんでいた。弟が同調したら、あるいは山を下りる決意をしたかもしれない。しかし、弟は私の言葉を打ち消した。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)

 私はそのとき、兄を亡くしたショック、この先の革命に対する不信感、離脱した同志への怒りなど様々な感情の中で揺れ動いていた。その中には恐怖心も混じっていた。暴力を振るわれ、兄のように命を奪われることは耐えがたかった。

 おそらく、永田もまた恐怖に支配されていたのだ。武力闘争を続けていくことへの恐怖。仲間に裏切られ警察に追われて、やがて逮捕される恐怖。その一方で革命へのこだわりが彼女にもあり、それが権力欲ともない交ぜになって、自分を脅かす存在はリンチにかけるという常軌を逸した行動に走らせていたのだと思う。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)

 加藤倫教の手記を読むと、森の影がうすく、永田の主導性が強くかかれている。これは、永田が指導部とメンバーの橋渡し役をしていたことと関係があるだろう。指導部の考えや決定が、下部メンバーに伝達されるのは、ほとんどの場合、永田の口からだったからである。

■「力なく首を振り続けた時の加藤氏の悲しい様子を思い出す」(永田洋子)
 森と永田の総括にはどうかかれているのか。

 その夜、われわれは若干のメンバーに指示して床下の加藤君の遺体とともにベース近くに埋めておいた尾崎、進藤、小嶋さんの死体を掘り起こし、他の場所に埋めることにした。この加藤君の死以後、我々は益々総括要求の討論家庭を経て暴力的な援助としてロープに縛り付けたメンバーが不断に逃亡を考えるものであるという当初の”暴力的な援助””ぎりぎりの同志的援助”という考え方にすら反する逆立ちしたサイギ心を大きくしていくことになり、他のメンバーの我々に対する恐怖の念すら形成していったのである。
(森恒夫・「自己批判書」 誤字訂正)

 加藤氏は縛られてからも決して卑屈にならず毅然としていた。しかも私たちの反同志的態度にもかかわらず、誠実さを失わず最後まで同志としての対応を期待し続けた。

 しかし、私たちはそれに応えようとせず冷たい態度をとり続けた。私は、死ぬ直前の「逃げようとしただろう」という追及に、力なく首を振り続けた時の加藤氏の悲しい様子を思い出すが、それは信頼していた私たちに気持ちの通じないことへの悲痛な思いの表れであったろう。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 多くの人が知りたいことは、なぜ、「逆立ちしたサイギ心」(森)が生じたのか、なぜ「冷たい態度をとり続けた」(永田)のか、ということなのだが、残念ながら、彼らの手記ではそれが明かされてはいない。

■加藤は暴力的総括の実験台にされたのか?
 加藤は、暴力的総括の第一号だったが、死亡したのは4人目であった。

 永田が加藤を批判したきっかけは、意見書問題だったが、加藤は、革命左派時代から、永田指導部に批判的だったため、永田にとって、うっとおしい存在だったと思われる。そう考えると、永田の批判はわかりやすい。

 わかりにくいのは森である。そもそも加藤のことをまったく知らないまま、永田が批判を始めると、それにおおいかぶせる形で、様々な批判を行なって、ついには暴力を導入した。つまり、永田のターゲットに便乗して、批判の矢を放ったのである。これは、暴力的総括の実験台にされたということであろうか。

 それにしても、加藤の生命力・精神力には驚嘆する。暴力による衰弱、食事はろくに与えられず、糞尿たれ流し、極寒の中の緊縛・目かくし、悪意の決めつけによる吊るし上げ・・・・・それでも、死の直前まで毅然としていた。

 もし加藤が、絶望したとすれば、それは、「逃げようとしたことがばれた」からではなく、同志に信用されず裏切り者扱いされたからだ。おそらく、この絶望感は、「敗北死」したメンバー全員が感じていたに違いない。