1971年12月21日 意見書問題 |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

連合赤軍のメンバーに加藤3兄弟がいる。いずれも中京安保共闘からの参加である。


加藤能敬(かとう よしたか・22歳)

加藤倫教(かとう みちのり・19歳)

加藤三男(16歳)


2人の弟は、長兄の影響を受け、運動の道に入っていた。


■「指導部に意見がある」(加藤能敬)


(意見書を読み上げた加藤能敬・「写真年年鑑1972」)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・加藤能敬



 21日の午後、私が小屋の入り口の近くにいたとき、兄が岩田とともに、小屋に向かってくるのが見えた。兄は逮捕されたが不起訴になり、ベースに戻ってきたのである。

 兄たちは緊張感に満ちた顔で早足に近づいてきた。私は、兄たちが小屋の前まで来ると、「赤軍派と一緒になることになったんだよ」と告げた。すると兄は、「そんなことは問題じゃない」と私のほうをチラッと一瞥しただけで、手を横に振り、さっさと小屋の中に入っていった。


 私が兄たちの後から小屋に入ると、兄と岩田がは永田のところに歩み寄り、「指導部に意見がある」と告げた。(中略)


 兄は紙に書かれた意見書を読み上げ始めた。兄たちが帰ってきたのをみた永田は、最初はうれしそうな顔をしていたが、彼らのただならぬ決意を持ってこの場に臨んでいるといった雰囲気と、兄の読み上げる「意見書」の内容に、次第に顔をこわばらせていった。


 兄が意見書を読み上げ、最後に意見書に賛同した4人の名前を読み上げ終わった途端、永田は兄に向かって、「そんなことより貴方は逮捕された時どうしたの」と、意見書の内容には何も答えず、たたみ掛けるように、まずは兄の逮捕時の報告をするように求めた。永田の切り返しにあって、兄は戸惑ってしまった。岩田も兄の逮捕問題を持ち出されて、黙り込んでしまった。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 意見書を書いたのは大槻節子と岩田平治で、2人は榛名ベースから12・18集会へ参加した。同意して署名したのは加藤能敬と中村愛子で、是政アジトで逮捕 された後、不起訴処分で釈放となったので、12・18集会 へ参加していた。


意見書の内容は、1971年12月18日 12・18集会(柴野春彦追悼集会) を参照してほしい。ことさら問題なるような内容ではなく、まっとうな指摘である。しかし、永田にしてみれば、「われわれになった」高揚感に冷や水を浴びせられ、赤軍派の森や坂東の手前もあって、許しがたい感情があったかもしれない。

 永田は出鼻をくじかれた兄に、「逮捕されたとき、何をしていたか」「山のことはしゃべらなかったか」「完全黙秘を貫いたのか」と追求の手を緩めず、立て続けに厳しい質問を浴びせた。

 永田の激しい反撃に気圧されてしまった兄は、「黙秘はした」「持っていたメモは飲み込んだ」と、俯き加減にぼそぼそと答えた。(中略)


 勢い込んで、永田たちを説得しようと榛名に駆けつけてきた兄だったが、永田の剣幕にあっという間に叩き潰されてしまった。兄は逮捕時の対応を自己批判し、総括することを要求された。岩田は、永田から赤軍派との統合についての合意など、この間の進展について説明されると、意見書の見解を撤回し、自己批判してしまった。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 岩田平治君はすぐに自己批判した。重大な決意をして「意見書」をしたためたように見えたので、彼の豹変には拍子抜けした。加藤君の方は、口では「わかった」と言ったが、心から納得しているようには見えなかった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 坂口の「あさま山荘1972(下)」によれば、永田は次のようにたたみかけた。攻撃のための批判でしかないことは明らかだ。


「12・18集会のときどういう立場をとったか」
「車がどうしてばれたんだ?」
「弁護士なんか信用できないのに、どうして弁護士を通じて連絡してきたんだ」
「警察に感ずかれて是政アジトは危険だとわかっているはずなのに、そこへ行って逮捕されたのはどういうことだ?」


 こうして「意見書」は、黙殺されてしまった。


■永田の手記に書かれていないこと
 さて、意見書問題が永田の「十六の墓標(下)」にはどう書かれているかというと、永田は、加藤兄に対し「意見書の中には事実誤認があるけど・・・」と説明し、「こういう事実からすればこの意見書は不適当よ」とたしなめたところ、加藤兄と岩田の2人は納得して自己批判した、という感じで、あっさり書かれている。


 「そんなことより貴方は逮捕された時どうしたの」と反撃し、加藤兄を厳しく追及したくだりは、ひとことも書かれていない。こういうことは手記を読む際、頭に入れておかなければならないだろう。永田の手記に事実関係のウソは書いていないと思うが、印象の悪いことは省略されている可能性があるのである。


 もっとも、これは永田に限ったことではない。ただ、永田の手記が他の人の手記に比べ極めて詳細なものになっているので、他の人が書いて、永田が書いてないと、目につくのである。


 連合赤軍事件の場合、事実関係ははっきりしている。だから裁判では情状酌量のさじかげんが量刑を左右する。「十六の墓標」は公判中に書かれたものだから、そういう事情もあると思われる。


■「京谷さんに教えるなんて大問題よ!」(永田洋子)


 私は被指導部の人たちが話し合っているそばに座っていたが、その時、加藤氏が、「完黙したといったけど、実は刑事と雑談したんだ」といっているのが聞こえ、続いて尾崎氏が、「高崎に帰る途中で権力に尾行されていると心配したので、山の全員が逮捕されることに備えて京谷さんに銃を埋めてある場所の地図を渡す手はずを取ったんだ」といっているのが聞こえた。(中略)

 私は、これにびっくりしてしまい、加藤氏と尾崎氏に強い調子で、「なに!雑談したという報告をどうしてしなかったの!銃を埋めてある場所の地図を京谷さんに渡したことをどうして報告しなかったの!銃を埋めてある場所を京谷さんに教えるなんて大問題よ!」といった。2人は一瞬驚いた様子をしたが、急にしょんぼりしてしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 京谷は、主に救援活動をしていて、12.18集会を主催した。加藤兄と尾崎が驚いたのは無理もない。一方、永田がびっくりしたのは理由がわからない。ともあれ、この一件ではっきりわかることは、もはや永田は、合法部を同志だとは思っていないことである。


 永田にはこの時点ですでに、獄中の同志や救対(救援対策)の同志たちと団結する意思は全くなかったようだ。前夜、「我々になった」と事実上赤軍派との組織統合が合意されたことを宣言したばかりであり、獄中や救対の同志たちを「分派活動をしている」「我々獄外の指導部を無視している」と敵対視し、分派活動を開始することを宣言していたからである。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


■「山で子供を生み育てていこうよ」(永田洋子)


 この頃、山本順一が小屋に来て「妻と生まれたばかりの子供をつれてきた」と告げた。(中略)
 山本のこの行動は指導部の承認を得たものではなく、独断でしてしまったことだった。その場にいた者全員が山本の行動に戸惑っていた。山本はみんなにむかって、「妻や子供と一緒に山で闘っていきたいと思ってつれてきた」と説明した。

 その説明を聞いた永田は、山本が独断で妻子を連れてきたことについては自己批判すべきだが、妻子が我々に加わることは歓迎すべきだと言った。


 小屋の奥にあるテーブルの周りに皆が座ると、山本は家族と共に闘ってゆきたいという決意を表明した。妻の康子も、「一緒にがんばって行きますので宜しくお願いいたします」と簡単な挨拶をした。


 これを受けて永田はニコニコしながら、「赤ちゃんまで来て山岳根拠地らしくなった。近く金子さんも出産するのだし、山で子供を生み、育てていくということができるようになるべきだ。山本さんたちを歓迎しよう」と述べた。多くのものがこの発言に拍手したが、森などは反応を示さなかった。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 山本は日中友好商社を退職し、頭を丸刈りにして榛名ベースへやってきた。山本が妻子をつれてきたとき、森は永田に「問題ではないか」とささやいている。赤軍派では考えられないことだった。


 ところが、永田も革命左派のメンバーも、山岳ベースを、訓練の場でなく、生活の場(根拠地)と考えていた。革命のユートピアを想い描いていたのである。


 メンバーは、とまどいながらも、妻子をつれてくることは歓迎だったし、永田の言葉によって、これまで妊娠すると中絶を余儀なくされていた女性メンバーにとって、子育てをしながら、闘争を続けていく希望が生まれたのである。


■「本当に分派だといったのか」(森恒夫)

 そのあと、森氏は、前澤氏を呼び、「本当に分派だといったのか」と聞いた。前澤氏はうなずきながら、「だって、僕たちの発言はさせないといったから、それなら分派だと思ったのだ」というと、森氏は、おもしろそうな顔をして、「よくいった」と評価した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 あとでわかるが、森は革命左派の分断を狙っていた。


 しばらくして、森君が永田さんに「逮捕されたことや取調べのことをもっと詳しく追及すべきだ。尾崎についても、自己批判を求めるだけではダメだ。地図を再現するように書かせろ」と言った。永田さんは頷いた。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 このときまでは、森は革命左派のメンバーを直接批判せず永田にいっていた。でも、このときまでである。


■「森氏の話をほとんど聞かないうちに寝てしまった」(永田洋子)
 夜中にかけての指導部会議では、スターリンの評価が討議された。もともと革命左派は全面肯定、赤軍派は全面否定という立場であった。森が発言しないため討議はもりあがらず、永田が「全面否定も全面肯定も共に誤り。今後、具体的に解明していこう」と、中途半端な幕引きをした。


 そのあと、森氏は60年代の階級闘争の追体験として、60年以降のことを語り始めたが、スターリンの全面否定も全面肯定も誤りだという結論に満足した私は、この話をほとんど聞かないうちに寝てしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 多くの関係者が証言している通り、永田は感情まるだしの言動が目立つ。加藤兄への批判も理由らしい理由はなく、これまでの加藤兄への感情がそうさせたのだと思われる。


 その証拠として、中村愛子は、加藤兄と条件(是政アジトでの逮捕→釈放→意見書に合意)は全く同じであるにもかかわらず、後日、山岳ベースにやってきたときに、何も批判されないのである。


 この日のハイライトは「意見書問題」である。加藤能敬(長兄)は最もタイミングが悪いときに、意見書を持ち込んでしまった。そして、さらに運の悪いことに、そこに森恒夫がいた。加藤能敬は、「共産主義化」のまな板にのせられ、「総括」の第一号になるのである。