汚れた体。
はじめてカラダを売ったのは14歳のときだった。いわゆるエンコー、援助交際活動ではなく、「5万円あげるからコンパに来て」とちょっと頭のゆるめの友だちに頼まれたからで、引き受けたわたしもわたしだが。その今でいうヤリコンのメンバー、といっても女はわたしと彼女の二人きりで、彼女が熱をあげていた男とその友だちたち、といった構図だった。「友だち連れてこいよー、そしたら会ってあげるから」なんていう、見た目だけが小マシなくそみたいな男。どこがよかったのか。もう彼女との付き合いはないので聞く機会はないし、まぁどうでもいい。その頃のわたしの感覚はというと、ナンパで見てくれのいい男についていってヤルくらいなら、お金をもらえるほうがいいに決まってる。という認識で、抵抗はあまりなかったように思う。そのヤリコンに参加し、お金もきっちり払ってもらった。ちなみに、支払ったのは、男たちではなく、彼女だ。彼女も14歳。すでに援助交際のベテランだった。性への意識というか、敷居がぐっと下がり、それからは、その彼女の指導と紹介を受けて、エンコー活動に勤しんだ。その行為を嫌だと自覚していたことはなくて、(生理的に合わないとか嫌なやつだとかそういう相手はもちろんたまいる)複雑な家庭環境の影響か、自尊心が低く、それでいて承認欲求は強い、そんな14歳には、性的欲求からであれど、求められる、ということはまんざらではなく、やりたい、と乞われることは、心のどこかを満たしてくれた。いかんせん、数十年前の話で、自分の気持ちの記憶などは特にあてにならない。そして、若いときのわたしは今よりももっと生きるということに追い込まれていて、嫌なことであっても、目の前の出来事をうまく消化できるように、感情のスイッチを入れ替えられた。そのうち、わたし自身もテレクラのフロントにいりびたり、友だちに春売りの斡旋をするようになっていった。金額までは覚えていないが、間違いなくこの頃が人生で一番稼いでいた。いくら大金を持っていたとしても、その価値を知らない子どもだったので、くだらないことにもなんの遠慮も我慢もなく紙切れのように使っていたし、後に残ったものは何もない。貴金属やブランドものなんかに興味があれば、せめて形には残ったのかもしれないが。実のところ、お金に対しての執着もないのである。この頃のわたしの実家は、父が働いていなかったのか、帰ってきてなかったのか、とにかく、そこそこの貧乏で、祖母の年金と叔母の援助で暮らしていたのだと思う。薄々わかっていたはずなのに、どうして生活費的なものをわたさなかったのか、わたしてあげたら楽になったやろうに、と大人になってから、ふと思う。コンビニの駐車場や公民館の玄関口で野宿することもざらだったが、そのどうでもいいお金を使って、快適に眠れる場所を買えばよかった。今思えば、だらけだ。君と呼ぶその人を想いながらも、どこかで諦めがつくのは、こういった経験の数々を、「そのときはそれしか選択肢がなかった」と、割り切れなくなったことも関係している。事実、いやおうなく股をひらかざるをえなくなったことも数えきれない。そんなときは、笑ってとまではいわないが、スイッチをいれかえて、あたりさわりなく従う。下手に拒絶すると、たいてい、ろくなことにはならない。無理やりやられるか、それ以上にめんどうなことになるのだ。正論ぶるつもりはないが、それを許容するなら、お金をいただいてやられるほうがよっぽどいい。運がよかったのだ。とんでもないこわい思いをしたとしても、命だけはまだある。「そんなに生き急いでどうすんの。まだ子どもやのに。」とよく叔母に言われたが、思い返してみると、わたしの人生というのはその言葉通りで、ほとんど子どものうちに終わってしまった。わかったようでいて何もわかっていないのが子どもであるのに。しかし残念なことに、思い返してみても、わたしがまともな子どもであった頃の記憶はない。物心ついたころには、手癖の悪い、人間の闇ばっかりを集めて知った顔をする、ろくでもない子どもだった。グレる人間のテンプレといえばテンプレなのか。他人にけがをさせたりといったようなことだけはないのが救いである。リセットボタンを押しても意味がない。このことに気づいたときは、さすがに絶望した。やり直すタイミングがない。わたしがわたしであることがいけないのか。それとも。いや、環境や遺伝子のせいにしてもなににもならない。しいていうなら、教育不足、か。こんなくそみたいなアイデンティティはなくなってしまえと、呪い倒していたら、ある日とうとうメンタルがイカれてしまった。自分のことがわからない。やりたいこともやりたくないこともわからない。何が好きで何が嫌いか。自分の思考が読めない。これはこれで恐れていたことである。春を売ることにしても何にしても、よくも悪くも、自分で決めて自分で生きてきたのである。自信や信念をなくしてしまったら、ただ生きることもままならない。ストレス発散の自傷ではもうどうにもならないのだ。痛みは痛みでしかなくなってしまった。このところは、合法的に処方される薬だとかで、なんとか表面上は平静を保てているが、解決にはならない。どうせ生きていなければいけないのなら、何かになりたい、と思うけれど、こんな頭と体では何の役にもたたない。文字通り、体は不良品で内臓も血液も使えない。経験値が偏りすぎてて、何のスキルもない。お金もない。努力と根性で乗り切るためのエネルギーもない。せめてどれかがあれば。欲しがってばかりでも仕方がない。足るを知れと。わたしにできることは、わたしのもっているものは、いったい何だろう。人に迷惑をかけないように、ただひっそり生きること。今はそれしかない。わかってはいるのだ。