監護者母・父との面会交流あり・なしの子の意見について~私が感じたこと | 金沢の弁護士が離婚・女と男と子どもについてあれこれ話すこと

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石川県金沢市在住・ごくごく普通のマチ弁(街の弁護士)が,日々の仕事の中で離婚,女と男と子どもにまつわるいろんなことを書き綴っていきます。お役立ちの法律情報はもちろんのこと,私自身の趣味に思いっきり入り込んだ記事もつらつらと書いていきます。

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このシリーズ
1 面会交流について悩んでいるお母さんたちへ
2 『離婚した親と子どもの声を聴くー養育環境の変化と子どもの成長に関する調査研究』から
3 監護者母の場合の父との面会交流,子の評価①~人数,割合の紹介 
4 監護者母・父との面会交流ありの場合の子の評価~子の声の紹介① 
5 監護者母・父との面会交流なしの場合の子の意見~子の声の紹介②

上記4,5の記事で, 監護者母・父との面会交流あり・なしの各場合の子どもの声について,『離婚した親と子どもの声を聴くー養育環境の変化と子どもの成長に関する調査研究』(FPIC)の分析や考察を紹介していきました。

 この記事では,その分析,考察について,私が感じたことを紹介します。

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 FPICの調査分析では,これまで見たように,以下の順序で検討が進んでいます。

①監護者母・父との面会交流ありの場合の子の肯定的評価,否定的評価の紹介。

②監護者母・父との面会交流なしの場合の子の面会交流肯定的評価の紹介。
 ここでは,「父と会えないもやもや」を抱えて生きるより,面会交流があってほしかったという子の声を紹介しています。

③監護者母・父との面会交流なしの場合の子の面会交流否定的評価の紹介。
 9例中の1例の紹介しかありません。
 その事例は,「父親に会わなくて済むことで気分的に幾分楽になった」 としつつ,他方で,別の問いに「離婚するような相手との子どもを何でつくるのか,そんな相手との子どもは生まれて生きていく意味はないと思った。このような感情は大きくなるにつれて強くなってきたと思う。」 と回答していることを紹介しています。重くずっしりくる回答としています。

④そして上記③の1例の紹介ののち,わざわざ,父との面会交流ありのケースで,父の再認識・受容にいたった2例を紹介しています。
 この2例は,なぜか上記①では紹介されず,ここでいきなり紹介されます。

⑤最後に,以下のまとめを入れています。

「夫として,妻としての争いが離婚によって収まった後,子どもに「(面会交流は)嫌だ」と拒否させないように,夫・妻の立場で争った関係から,父親として,母親としての新たな関係で子どもの立場・幸せを考えていくことができる,『どちらも親』として認識できる新たな関係の成熟が求められている。」 

3 私が感じたこと

(1)
 これまでFPIC調査で紹介されてきた子の声を読みますと,面会交流が子によって肯定的に評価されるかどうかは,父親のあり方に大きく依存するように,私は感じました。
 それは,当然と言えば当然です。前記事 監護者母・父との面会交流ありの場合の子の評価~子の声の紹介①の中の2項の面会交流ありの肯定的評価①~⑨は,父親に対する子のプラス評価が大きいから,面会交流自体が肯定になるようと私は感じました。

 特に,解説が取り上げる前述の肯定的評価⑧,⑨(かつて拒否していた父を再認識して受容したとされるケース)は,時間の流れの中での子ども自身の成長もあるように私は感じます。そして,なにより,父親自身が,離婚後に,一定の変化を見せ,節度をもって子との面会交流を実施したことが,離婚時拒否した父親の再認識・受容とつながったのではないかと私は想像します。
 つまり,父自身も変わり,そして,子ども自身も,母との関係や知人や本やいろいろな経験の中で成長し,離婚についての受け止めを作っていって,その中で父自身も変わったことを再認識し,受容したというものではないかと私は想像するのです。

(2)
 他方,監護者母・父との面会交流ありの場合の子の評価~子の声の紹介①の中の3項で紹介した3項の面会交流ありの否定的評価①~⑤は,その内容を読むだけで,どうしようもない父親であるということを子が面会交流を通じて再認識したケースと言えるでしょう。

 こういう「どうしようもない父親」であることを再認識するに至った面会交流が子にとってプラスかマイナスかなどということは,私には一概に言えません。
 それは,究極的には,その子自身のその後の受け止め,生き方に関わることだからです。そういう「どうしようもない父」と再確認できたことに,子ども自身が5年後,10年後に意味を見いだしたという場合だって,もしかしたら,あるのかもしれません。
 こういう次第ですので,私は,このような面会交流自体の子の否定的評価から,直ちに,その面会交流は子に有害であったという結論を導くのは,私のフランクル的発想からしますと,早計であるように思います。

 ただ,ここでは,面会交流ありの肯定的評価,否定的評価は,離婚後の父の姿に大きく依存するのではないかということを私自身の感想として,提示しておきたいと思います。

(3)
 この調査では,前記2項の②で確認したように,父との面会交流なしの場合で面会交流に肯定的な子の意見を紹介し,「父と会いたかった」の声が複数あったとしています。「父と会えないもやもや」を抱えて生きてきたという声が紹介されています。
 それは調査結果としてそうなのでしょう。
 ただ,私は,さらに進んで,では,その「もやもや」を解消するために面会交流が実施された場合,先の(1)(2)のように,父の有り様如何では,面会交流について肯定的,否定的の双方に分かれていくということを踏まえて,その上で,もう少し突っ込んだ考察をしてほしいなぁと感じました。
 つまり,FPICは,面会交流を実施してどうしようもない父親であったことを再確認する結果となる場合について,そのような面会交流をどのように考えているかを示してほしかったです。
 それもまた子の人生だというフランクル的な考えでいくのか,それとも,それは子の傷つきが大きいから好ましくない面会交流だと考えるのか。
 そこを曖昧にして,「面会交流がないことで抱え込むもやもや」だけを強調するのは,面会交流がありさえすれば,そのもやもやがなくなってOKという安易な方向に読者を誘導しているように感じました。

(4)
 また,この調査では,面会交流なしの場合の子の意見について,否定的意見の紹介がただ1例しかありませんでした。9人が否定的意見だったのですから,もっとその否定的意見を紹介してほしいと思いました。

 この1例は,面会交流がないことで「気分的に幾分楽」だったけど,「生まれて生きていく意味はない」という思いを成長とともに強くしていった方です。
 そして,先の2項④で指摘したように,この調査研究の解説では,この1例の紹介の後に,わざわざ面会交流ありのケースで父の再認識・受容につながった2例を紹介しています。本来,この2事例は,面会交流あり・肯定的評価で紹介されるべきものですが,そこでの紹介はなく,ここでいきなり紹介されます。

 こういう順序で解説されますと,まるで,面会交流なし否定的意見の1例の方が感じている「生まれて生きている意味」への懐疑が,面会交流が有りさえすれば,父の再認識・受容により違ったものになったのではないかなどと読者に強く印象づけるように思います。
 しかし,実際に面会交流が実施された場合,父の有り様次第では,「どうしようもない父」の再認識に至る場合もあります。
 先の(3)と同様,この場合の評価をFPICが全く行っていないことは,私には残念です。

 さらに言いますと,「生まれて生きていく意味」を感じ取れること…それって,面会交流の一事で決まっちゃうようなものではないと私は思うのですけれども。
 子ども自身の人生の中で,たった一人の人との出会い,たった一冊の本との出会いでも,大きく変わるというのが臨床家アリス・ミラーの指摘です。

 面会交流は,子が成長していく上で,なるほど,父との関係という,それなりに大きな要素について,子ども自身の受け止めを形成させていくでしょう。
 しかし,それを実施して,「どうしようもない父親」であることを再確認することもあります。その場合,子どもは,「こんなどうしようもない父親から生まれた俺はどうしようもないんだ。」という受け止めを形成することもできますし,他方で,「こんなどうしようもない父親のようにはなりたくない。私は私がこう在りたい姿で生きていく。」という受け止めを形成することだってできます。
 どのような受け止めを形成するかは,結局は,最終的には子ども自身です。
 子ども自身が,いろいろな他者との関わりの中で,決めていきます。
 
 仮に面会交流が実施されなかったとしても,その中で,子ども自身が,『生まれて生きていく意味」を感じれる道は開かれています。フランクル的に言うと,人間は,「人生からの問いかけに答えていかなければならない現存在」です。その「問いかけ」にどのように答えていくか。その中で,1回きりで他者では代替不可能なその子自身の価値を実現する道はいくらでも開かれています。それゆえに,「生まれてきた意味がない」などということはないのです。

 ですから,私は,読みようによっては,「面会交流なし」が,ストレートに「生きる意味への懐疑」をもたらしていて,父との面会交流で父の再認識・受容があればそれは違ったものになるのではという仄めかしをしているように思われる記述方法には,大いに疑問を感じました。
 
 こういう次第ですので,私は,この調査研究において,監護者母・父との面会交流なしのケースで面会交流について否定的意見9人のうち,本文解説部分では,この1人しか取り上げられていないことや,その取り上げ方に問題を感じた次第です。

 この調査結果では,父との面会交流なし・面会交流否定的意見の9人全員が,悪化した夫婦関係の中で養育されたトラウマと離婚のトラウマに対し,「生きる意味への懐疑」を重くして成長していく一方だったのでしょうか?


 いろいろなことを考えさせてくれる調査研究であり,その価値は大きいです。
 それを評価しつつ,別の観点からの疑問点とかはあってよいと思います。

 そして,最終的に面会交流は,個別具体的なものです。
 それぞれの諸事情の中で,父が,母が,子が,態度を決めていかないといけない。

 そのような中で,私は,監護者母の場合の父との面会交流について,あくまでも抽象論ですが,以下のように考えます。


 まず,父の方が,ご自身のあり方や子への関わり方に問題が無かったかどうかをしっかりと考えていただく必要があるのではないか。

② そして,もし,父の母との関わり,子の関わりに問題が大きかった場合であるが,離婚後も,父がその問題性に無自覚で,変わろうとしないまま子との面会交流を求めるとしたら,それは現に子を監護している母と子を苦しめることが大きいのではないか。離婚後も離婚前の歪んだ関係性の中に母と子を巻き込んでいくだけではないか。


 もし,前記②のような状況の中で,母に,面会交流は子のために必要だと簡単に言ってしまったら,変わろうとしない父によって生じる関係性の歪みを離婚後も母に背負わせ,母を罪責感に落とし込むことにならないか。まずは変わろうとしない父の側の問題が大きいことを母に伝え,その上で,母として,子のためにどういう態度を取るかを考えていただくというアプローチをしないといけないのではないか。
 
④ 他方,父のあり方,父の子との関わりに問題性がない場合とか,父が離婚前の問題性を修正して離婚後の新たな関係を目指して変わっているといった場合であれば,母としても,父と子の面会交流が母との関係で子の負担にならないように十分に配慮し,その面会交流が子にとって肯定的に感じられるように努力すべきではないか。この点で母に問題がある場合は,その問題点を母に考えてもらい,母自身に変わってもらうアプローチが必要になるのではないか。


 子自身の心の傷,面会交流の受け止め,変化の方向性を,誰がどのようにして評価するのか。子の年齢や子の個性の問題もあり,その子自身の他の経験とその受け止めもあり,単純な議論はできない。時間的にどのくらいのスパンで考えているのかも大事です。
 「子の福祉」といったとき,それそどういうスパンで考えるかとか,どういう点を考慮要素にするかとか,もっと精緻な枠組みが必要ではないか。
 過去のある出来事が,「その子の福祉」に叶うかというのは,私は,最終的には,子自身が5年度10年後15年後と・・・・そのときの子自身が自分の人生の中で位置づけていくものと思います。
 それを,現時点において,第3者が判断するしかないわけですから,そういう「ブラックボックス」のようなものを判断する分析枠組みをもう少し精緻に作り上げていく必要があるのではないか。
 
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