230.言えなかったおめでとう | 彼女じゃない恋愛*愛した男には彼女がいた

230.言えなかったおめでとう

しまって置いた、彼への誕生日プレゼントを出したのは3日後のこと、彼の誕生日まで後4日。
テーブルの上に置いた、プレゼントが入っている紙袋は少しよれていた。
折り目に沿って少し紙袋を引っ張り伸ばす。
紙袋越しに卓上カレンダーが目に入る。
土曜日、ピンク色のハート型シールを貼ったその日付けに予定はない。
感情は渦巻き、唇をかみ締めてみるが、痛みとともにかみ締める力を緩め、私はリップクリームを探す。
リップクリームを探している途中に、つめ磨きヤスリが目につき、爪を磨いてみる。
誰に指摘されるわけでもなく、たった一人の部屋で、平然を装う自分、何でもないフリをする自分が情けない。
色んな事を考えては打ち消した。
バレンタインの時みたいに、会いに行けばいいじゃないか。
何の遠慮?何の思いやり?
毛抜きで腕の毛を抜く。
何もしないのは、忙しいからだと言わんばかりに…。


彼は忙しいことと、徐々に体調が悪くなっていることをメールで知らせてきた。
はっきり言って私には社会の厳しさが解らない。
体調が悪ければ休めばいいではないか、そんな理屈がまかり通るものではないと頭で知りながら、しんどい思いをして働く世の中に矛盾を感じる。
何かが違う。
何かが間違っている。
本当は忙しくないのではないだろうか。
本当は体調など悪くないのではないだろうか。
本当は元気だし休みもあるし順調なのではないだろうか。
本当は休めるのに無理から働いているのではないだろうか。
本当は…私が間違っているのか…。
何か一つでも間違っていれば、こんなに苦しむことはない。
納得さえ出来れば、楽なものなのだ。
私の考えが間違っているのだな…。


死ぬほど苦しいのに死なないのは何故だろうか。
当たり前のことなのだけど、心の傷で死んでしまえるのなら、心も命と同等に扱われていたかもしれない。
心は終わりを知らない。
どんなに痛みを与えても、ずっとずっと耐える。
ただ一つの喜びを与えられる為だけに。


2月25日、彼の誕生日前日。
何処へも行く予定はないけれど、身なりを整えた。
期待などないし、もしものカケラもない。
他人の誕生日を嬉しいと思う動機さえ解らないが、ウキウキとする気分が溢れ出た結果の振る舞いだった。
そう、ただの自己満足。
今まで会えないことに対して滅入っていた気持ちが、「おめでとう」という気持ちであらわれた気分だった。
不思議だ。
この世に生まれてきた軌跡とか、この日に生まれなければ出会わなかったとか、感謝する次元はねじれて掴み損なっているけれど、とても嬉しい気分だ。
多分、私は2月26日を大好きだと答える。


彼からの連絡はこの日、一度もなかった。
今日もまた忙しいんだろうなと、受け流す余裕があった。
いや、寧ろ「おめでとう」の一心で落ち込む余裕すらなかったのかもしれない。
伝えねば、この気持ちを伝えねば…。
誕生日になった瞬間伝えることができたのなら、とても幸せなことだと思った。
携帯を開いてみると23時50分と液晶に浮かびあがる。
0時になったら電話しよう。
家の電話で標準時間を確かめる。
どうやら私は、5分も先急いでいたらしい。
携帯の時計を23時46分にセットし直し、じっと時が過ぎるのを待った。
再び携帯が23時50分を表示する。
私は待ち遠しくて、彼へとダイヤルする。
5回ほどコール音なり続け、自ら遮った。
彼は、電話に出てくれるだろうか。
あらぬ不安が横切る。
もう一度、ダイヤルする。
すると、僅かなコール音の後、彼の声が私の耳に届いた。
「もしもし」
「もしもし」
「ん?あれ?誰?」
「え?!ゆうじ?」
「あぁ、せのりか!今、誰か確かめる前に出たから解らんかった」
「そう…」
「あぁ、もう毎日毎日残業ばっかりでホンマしんどいわ」
「そっか」
「会いに行かれへんくってごめんな」
「うん」
「元気か?声、暗いぞ」
「うん…」
「俺の声聞いて元気にならんの?ん?」
「会えないと寂しいよ」
「そっか」
「寂しいよ!」
「ふ~ん」
「何よ!!」
「あはは、元気そうやん」
「元気じゃない」
「元気になってくれへんの?」
「寂しいもん」
彼の声を聞いて、急にとてつもなく甘えたくなった。
止まらなかった。
何て言って欲しかったのか解らなかったけれど、彼の言葉に期待してた。
だけど、電話の向こうから彼のため息が聞こえて…。
「寂しいよ、すごく毎日苦しい、辛い」
甘えに似た彼を責める言葉が溢れ出る。
「そう」
彼の返事は適当だった。
「苦しくてね、息が出来なくなっちゃうんだよ」
「ふ~ん、呼吸整えたら?」
「・・・」
冗談だったのかもしれない。
だけど、言葉を失った。
冗談だったのなら、何か言って欲しい。
なのに、彼も黙ったまま、携帯の機械音だけが耳に届く。
時計の秒針の音がやけに大きく聞こえた。
「話すことないなら、俺寝るわ」
「え、ダメ」
「何?何か用?」
「用…用…は…」
時計を見ると、まだ23時58分。
「うんと…えっと…」
「何?何かあるなら早く話して」
「あのね…えっとね…」
「話さないなら切るよ」
「えっと…」
「用はなんですか?」
「用は…な…い…」
「あっそ」
時計の針はゆっくりゆっくり進んでた。
私が早く数を数えても、早くは進んでくれなくて…。
無言の5秒後、彼は何も言わずに電話を切った。
10分、もたなかった。
「おめでとう」と言えずに。


涙がほほを伝った。
鼻水を啜り上げた2分間はあっというまに過ぎていった。
待ち遠しかった26日0時は、もう20分も前の昔。
<お誕生日おめでとう>
送ったメール、届けた気にはならなかった。
<ありがとう>
すぐに返事が返ってきた。
返事など返ってこなければ良かったのにと思った。
何故、あの時言わせてくれなかったの…彼を責める私がいる。
たった2分を責める。
こんな筈ではなかった。


バッチリとメイクされた私の顔は、場違いだ。
お調子に乗って作り上げたヘアメイク、頭にささったヘアピンを一つずつ取りはずす。
型が少し残ったまんま髪はズリ落ちて、今の空気にピッタリ似合っている。
溶けかけたヘアワックスが気持ち悪い。
マスカラが目に入って少しだけ痛い。
やけくそにティッシュで目を拭いたら、まつげが抜けて苛立った。


無意識に私はまた彼に電話をしていた。
ずっとコール音が鳴り響いている。
たった一言言いたかっただけなのだ…。
コール音は留守番電話に切り替わる。
そして私の携帯がなる。
<寝ます。おやすみ>


何かを察した。
彼の理解につながる何かを察した。
だから、私は傷ついていないフリをする。



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