数十回にわたり、伊達政宗およびその一族や子孫、ライバル、伊達藩についての足跡(史跡)を紹介します。
今回は伊達氏16代当主輝宗の活躍について紹介します。
その1
伊達氏の歴史についてはこちらをご覧ください。
当時の奥州勢力図。
文中の色文字と勢力図上の色文字も同色にしてあります。
伊達氏15代晴宗は最上氏との和睦を図るため、1564年、二男の輝宗と最上家当主・義守の娘・義姫(よしひめ)を結婚させました。
※伊達家長男の親隆(ちかたか)は岩城氏の養子となり岩城氏の実権を握っていました。
そして北の脅威を取り除いた上で、婚姻の年に輝宗に家督を譲って隠居をします。
それにより伊達輝宗が16代当主となりました。
この輝宗の子が奥州の覇者となる独眼竜政宗です。
当主となった輝宗でしたが、依然として父・晴宗やその重臣達が実権をにぎっていたため、
1570年、父・晴宗の重臣・中野宗時とその子の牧野久仲(まきのひさなか)を謀反の疑いありとして居城の小松城を攻め、中野氏、牧野氏を追放処分とします。
※牧野久仲は牧野家へ養子に出ていましたが中野宗時の実子です。
また、その際に協力的でなかった小梁川盛宗(こやながわもりむね)、白石宗利(しろいしむねとし)、宮内宗忠ら家臣も処罰してしまいます。
それにより伊達家の実権を握った輝宗でしたが、奥州各地の勢力との戦いは果てしなく続きます。
輝宗が家臣団をまとめあげた1570年には、最上氏でも、義守と子の義光(よしあき)の間で内乱が起こります。
伊達輝宗は義父・義守に味方し内乱に介入しますが、義光が家督を継ぎ、翌1571年義守が出家する事で一応の解決を見ます。
しかし1574年、またも内乱は再発します。
義光に反発する上山満兼(かみのやまみつかね)をはじめとする重臣らが隠居した最上義守を担ぎ上げ、伊達輝宗は義父・義守に味方するという形で最上領内上山(かみのやま)まで攻め込みました。
しかし、義光の妹である義姫が輝宗に対して撤兵を促したことで最上義光の危機は去りました。
最上氏の内乱は年内に治まり、最上義光が再び実権を握りますが、
以上のような経緯から、最上義光は義姫の嫁ぎ先とはいえ、伊達氏を快く思わないようになっていました。
最上家の内乱は、親伊達派が粛清され、結果的には反伊達派が力を持つ事になってしまったのでした。
つづく
伊達輝宗の活躍その2へ
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