北条氏照家臣 広瀬殿 | たろうくん(清水太郎)のブログ

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八王子の夕焼けの里でniftyの「清水中世史研究所」(八王子地域の中世の郷土史)とYahooで「清水太郎の部屋」として詩を書いてます。

北条氏照家臣 広瀬殿

広瀬殿 着到状以外にその名はない。

 1本やり
 六人上下  一本さし物   広瀬殿
       三人手明
   以上

 武蔵国入間郡に広瀬荘あり、比呂世と註す。風土記傳に「今高麗郡の内に広瀬村ありしも、此處ならんには、後世郡界の変ずること知るべし」と。また神名式に入間郡広瀬神社見え(上広瀬村)、法恩寺寶冶元年文書に入西郡春原荘広瀬郷、健治二年文書も同じ、又広瀬社天正十年銅佛銘には「高麗郡広瀬郷」とある。春原荘は入間川左岸の低地に立地しており、現在の狭山市上広瀬・下広瀬に比定される。
甲斐の豪族広瀬氏は八代小石沢筋郡広瀬邑より起る。清和源氏武田氏の族と云う。角田氏の舊記には「一族也」と述べる。広瀬郷左衛門尉景房・最も名あり。一騎當千の士と称せられる。甲陽軍監に初め板垣衆と。又家忠日記等に見える、但し左馬介に作るは非也。大阪役に広瀬左馬助戦死す、郷左の養子かと云う。恵林寺靑表紙日記に「山形三郎兵衛同心広瀬清八、同清次郎、藤次郎」等あり、此處にも広瀬の地あり(甲斐国志)。
巨摩郡の名族に小笠原氏の族あり、中巨摩郡の誠忠舊家録に「山縣昌景衆、広瀬主計輔景則の後胤、天正自後醫術を業と為す、藤田村広瀬周平和泉」とある。東山梨郡八幡邑の名族、又甲府の名族にあり(姓氏家系大辞典)。
○千人同心の広瀬氏 「千人同心由緒之書付 河野与五衛門組 元禄十二年卯十月」
「権現様御代より御奉公仕候 一 曾祖父 本国甲州 生国甲州 広瀬太郎左衛門 病死 一 祖父 本国甲州 生国武蔵 広瀬波右衛門 一 父 本国甲州 生国武蔵 広瀬市郎左衛門 病死 一 御切米高弐拾六俵 本国甲州 生国武蔵 広瀬源左衛門 当卯ニ四十三歳」。逸見敏刀著『多摩御陵の周囲』に次のようにある広瀬氏がこの千人同心の広瀬氏と思われる。
「…御霊明神の裏に広瀬助之亟と云う家がある。この家は八王子城攻めの時、金子曲輪に於いて壮烈な戦死をした、城方一方の勇将金子三郎左衛門尉家重の末だと云う。當時の古文書數通(広瀬家文書)を所持している。現在の姓広瀬は後千人隊の株を買った時以来のものだと云ふ。広瀬は郷八と云ひ、甲州の士広瀬郷右衛門が弟子であって、郷右衛門は高天神城責めのとき家康から賞讃の言葉を賜わった程の大剛の勇士であった。郷八の子孫は後断絶したと言ふから、之の株を買ったものであらう。…」。