その17(№4034.)から続く

 

昭和62(1987)年4月1日、日本国有鉄道はJR6社(旅客会社のみ)に組織変更し、114年に及ぶ国有鉄道の歴史が閉じられました。

この日発足した旅客会社は、JR北海道、JR東日本、JR東海、JR西日本、JR九州、JR四国の6社。485系はこれらのうち、東海と四国を除く4社に承継されました。

485系全1227両(うち483系8両、489系136両)の、各社ごとの承継両数は以下のとおり。

 

北海道…7両

東日本…461両(うち483系8両・489系28両)

西日本…435両(うち489系108両)

九 州…324両

 

当時485系が活躍していたのは東北・北陸・北近畿・九州だったので、この分布と両数も合点がいきます。JR東海は「しらさぎ」乗り入れと名古屋地区のホームライナーの運用があったものの、485系の配属はなされず、承継されたものはありませんでした。JR四国は当時殆ど電化路線がないので、配属がないのも当たり前です。

しかし、不思議だったのは北海道。それも食堂車とグリーン車だけ7両が配属されたこと。この7両は、民営化直前の昭和62年3月27日付で札幌に配属されていますが、食堂車1両がのちに「北斗星」用の食堂車の改造種車とされた以外は、全て使用されないまま廃車になっています。一説によれば、これら7両は、同時期に札幌に配属された583系の付随車ともども、ジョイフルトレインの改造種車にする予定があったそうですが、真偽のほどは不明です。

したがって、485系を保有している会社で実際に運用していたのは、東日本・西日本・九州の3社ですが、当時の485系は最新鋭の1000番代なら車齢も10年前後、従来型でも483系のユニットを除けば20年は経過しておらず、十分に働ける車両でした。そこで、485系も往年の「特別急行」の大編成こそなくなったものの、新生JRの顔として、ますますの活躍が見込まれました。

 

JR発足の翌年には、青函トンネル・瀬戸大橋の開業により、本州と北海道・四国の鉄道がつながるという、明るいニュースがありました。このときとばかり、JR各社は「一本列島」と銘打って、大々的なキャンペーンを打っていたものです。今にして思えば、JR発足で国鉄のネットワークが分断された後になって線路がつながるとは、出来の悪いブラックジョークではないかという感想しか出てきませんが…。

それはともかく、JR東日本が運行していた特急「はつかり」の一部が、青函トンネルの開業に伴い、トンネルを通って函館まで延伸されることになりました。

電車特急の運転は青函トンネル開業前から内定していて、昭和62(1987)年7月ころから始まった、同トンネルを含む区間(海峡線)の試運転にも、485系1000番代が充てられました。祝賀ヘッドマークを掲げた同系が、函館駅のホームに停車している写真は、当時の鉄道趣味誌のグラビアを飾ったものでした。

この485系1000番代は、青森に在籍していた6連のうち、一部の編成に青函用ATCを搭載し、併せてモハ484の第1パンタグラフを高速走行時の追従性に優れたものに交換するなどのチューンナップが施されたものが、青函トンネルを通る「はつかり」の運用に充当されています。

昭和63(1988)年3月13日、青函トンネル開業に伴う全国規模のダイヤ改正が実施され、盛岡-青森間の特急「はつかり」は、2往復が函館まで延伸されました。これは、485系が青函トンネルをくぐって北海道へ顔を出すようになったということですが、同系が営業列車として北海道を走るのは、「いしかり」で撤退した昭和55(1980)年以来8年ぶりとなりました。雪の少ない道南地区だからなのか、1000番代の耐寒耐雪性能が卓越していたからなのか、「いしかり」のときのような不具合は発生しませんでした。もっとも、青函トンネルの内部は、常に温度が一定していて湿度が非常に高いため、厳冬期に列車がトンネルに突入すると機器内部に結露を生じたりするなど、別の意味での苦労はあったようですが。

 

北陸では、民営化直前から「ゆぅとぴあ和倉」なる気動車を485系「雷鳥」編成に牽引させて、当時非電化だった七尾線に直通させるという、破天荒な運転方法に出ていましたが、さらにこの日、これまでとは全く異なる発想の特急列車が走り出しました。それが「かがやき」(長岡-金沢)と「きらめき」(米原-金沢)ですが、この両列車は新幹線接続という使命をさらに特化し、停車駅を最小限に絞って速達性を追求したのが特徴となっています。

車両の面も改良がなされ、座席を取り換えてシートピッチを拡大し、ビジネス客の需要を見込んで電話のみならずファクシミリも備え付け、さらに新しい試みとして軽食(サンドイッチ)の自動販売機を備え付けるという、それまでに前例のないサービスが試みられました。前例がないのは外板塗色もそうで、それまでの国鉄特急カラーをかなぐり捨て、白をベースに鮮やかな赤と青の帯、さらに先頭車には金色の帯も入れるというド派手なカラーリングで、見る者を驚かせました。

ただし編成は全席指定の4連と、他の特急に比べて身軽な姿となりましたが、その後利用客の増加に伴い、増結がなされています。

 

九州では、民営化直前の昭和62(1987)年3月21日から、博多-熊本間の「有明」が、熊本から豊肥本線の水前寺まで、2往復が延長運転されることになりました。

これは、高速バスとの対抗策のため。熊本駅よりも水前寺駅の方が熊本市の中心部に近いことから、鉄道利用の利便性の向上を狙ったものです。

しかし、当時の豊肥本線は非電化。

それでは乗り入れはどうしたのかといえば、熊本-水前寺間はディーゼル機関車(DE10)の牽引。非電化区間ではサービス電源が確保できないため、12系のスハフ12を電源車として連結し、DE10と485系編成の間に青い12系が挟まれるという、なかなかシュールな絵が見られました。

機関車牽引の特急電車なら、往年の151系の「つばめ」「はと」の前例がありますし、機関車と485系編成との間に電源車を挟むのも、「つばめ」「はと」と同じ。しかし、「有明」がこれらと決定的に異なるのは、上りとなる水前寺から熊本までの運転を、推進運転としたこと。これは勿論、水前寺駅での機回しの手間と時間を節約するためですが、推進運転での営業列車は、過去に例のないものとして注目されました。

水前寺乗り入れ「有明」は好評を博し、JR発足直後の4月25日には、早くも5往復に増強されています。

なお、「有明」牽引用に用意された機関車DE10(1755号機)は、国鉄特急カラーと同じ色に塗り分けるという塗色変更を施しています。また、電源車は、後にスハフ12に代わり、余剰の車掌車ヨ8000を改造して充当しています(ヨ280000)。

 

しかし、「はつかり」が函館に達し、「かがやき」「きらめき」が走り始めた昭和63年3月、JR九州では485系の置き換えを視野に入れた新型車両を投入します。それが「ハイパーサルーン」こと783系なのですが、この車両の登場は、485系にもいずれ来る「その時」を、否応なしに意識させるものでした。

 

次回は、上記「ハイパーサルーン」登場と、常磐系統に現れた新型特急を取り上げます。

 

その19(№4055.)に続く