これまで北陸特急劇場の登場キャストについて触れてきましたが、北陸特急劇場の最古参キャストである「白鳥」については、これまで触れずに来ました。
今回は、「白鳥」のJR発足後の変遷を取り上げます。

「白鳥」は日本最長距離の昼行特急として君臨していましたが、国鉄時代末期には食堂車が抜かれ、しかも昭和61(1986)年11月のダイヤ改正では、グリーン車1両のみの9連となるなど、電車化当時の13連を知る者からすると、随分と「格落ち」したものだと思えました。
ただ、車両の担当はそれまでの青森から新潟(上沼垂)に変更され、JR発足後間もないころ、車両の内外装をリニューアルする工事を受けていますので、乗客の居住性は改善されました。具体的には、グリーン車は横3列、普通車指定席は座席そのものを取り換えるとともにシートピッチを広げ、長時間乗車でも疲れないような配慮がされています。外板塗色も伝統の国鉄特急カラーを捨て、白地に水色と青緑の帯を入れたもので、実に爽やか、かつ軽快な色でした。
このころは、485系のリニューアルと共に外板塗色を変更する例が多くなっていた時期です。車両のカラーリングは、設計当時で最も格好よくなるように構成されるのが常ですから、事後の変更は似合わなかったり、見る者に違和感を持たせたりする例が多いものですが、JR東日本新潟支社のこの塗色は、そのような違和感は全くなく、逆に一番485系に似合っていたと思います。
このリニューアル編成は「白鳥」の他、大阪-新潟間を通す足の長い「雷鳥」にも運用され、オリジナルの国鉄特急カラーを堅持するJR西日本車と一線を画すカラーリングが異彩を放っていました。

JR発足と前後したころから、「白鳥」などの長距離を走る特急には、乗客の流動に変化が見られるようになりました。
それは、長距離を通しで乗る乗客の減少です。
新幹線や高速バスが発達した昭和末期から言われるようになったことですが、鉄道が選択されなくなる所要時間として「4時間の壁」というものがあります。これは、鉄道による目的地までの所要時間が4時間を超えると、航空機など他の交通機関を選択する傾向が強くなるという、旅行者の行動傾向を表すものです。
この「4時間の壁」が、「白鳥」など長距離特急を直撃しました。大阪-新潟の所要時間は6時間台ですし、大阪-青森は12時間近くかかっていました。これでは、長距離を乗るのは、乗り換えを嫌う高齢者か、所要時間にこだわりのない愛好家などの旅行客しかいなくなってしまいます。「白鳥」運転当初の主要な顧客だった、関西・北陸から北海道への長距離客は、殆どいなくなってしまいました。
結局、「白鳥」は、大阪-金沢・富山間では「雷鳥」の一員としての顔、金沢-新潟間では「北越」の一員としての顔、さらに新潟-秋田・青森間では「いなほ」の一員としての顔という、3つの顔を併せ持つ列車になってしまいました。新潟発着の「雷鳥」も同じように、事実上金沢あるいは富山で列車の性格が分かれることになり、やはり2つの顔を併せ持つ列車となります。このように、「3つ(あるいは2つ)の顔を併せ持つ列車」といえば、聞こえだけはいいのですが、何のことはない、往年の長距離鈍行と同じように、これら長距離特急は単に長い区間を走っているだけで、その間の様々な需要に応えているだけという形態になってしまったということです。

平成9(1997)年3月、「白鳥」の車両の受け持ちが変更され、それまでのJR東日本からJR西日本へ変更されます。編成構成こそ同じグリーン車1両入りの9連ですが、グリーン車は横4列のままですし、普通車も座席こそ取り換えられていますが、シートピッチは従来のままという仕様でした。これは、乗客の目線で見れば明らかに「後退」であり、以前と比べても明らかにサービスダウンといえるものでした。ただ、オリジナルの国鉄特急カラーを纏う編成が「白鳥」運用に入ったことから、約10年ぶりに国鉄特急カラー、それも(編成によっては)優美なボンネット型先頭車が先頭に立つということで、撮影派の鉄道愛好家は狂喜したようです。
今にして思えば、当時681系の投入で「スーパー雷鳥」運用が減少していましたし、かつJR東日本への乗り入れは障害とはならなかったのですから(実際に『スーパー雷鳥』編成が直江津から長野方面へ乗り入れたことがある)、居住性に優れた「スーパー雷鳥」用の編成を何故「白鳥」に転用しなかったのか、あるいは「白山」にあったような「ラウンジ&コンビニエンスカー」を連結してもよかったのではないかなどと、様々な疑問が頭に浮かびます。しかしこれも、「現在の目で当時を見たもの」でしかないのかもしれません。当時でも、もはやテコ入れが憚られるくらい「白鳥」の長距離利用者は少なくなっていた、というのが真相ではないかと思われます。ということは、当時において既に「白鳥」には新車やリニューアル車を投入するほどの価値がなくなった(設備投資の価値がない)と判断されたということであり、このような判断が下された時点で、「白鳥」の命運は決まっていたのでしょう。「ブルートレインの始祖」である東京-博多間の寝台特急「あさかぜ」が乗客減により敢え無く廃止されたように、「白鳥」も「北陸特急の始祖」という歴史の看板だけでは、商売にならなくなってしまったといえます。

結局、平成13(2001)年3月のダイヤ改正で、「白鳥」は廃止されました。「白鳥」のダイヤは、大阪-金沢間を「雷鳥」、金沢-新潟間を「北越」、新潟-青森間を「いなほ」に分割されました。大阪-新潟間の「雷鳥」も同様に金沢で系統分割がなされ、「雷鳥」と「北越」に分割されています。
昭和36(1961)年10月に北陸初の特急として走り始め、北陸特急劇場の最古参かつ最重要キャストとして、40年にわたって君臨し続けてきた「白鳥」は、遂にその舞台から消えることになりました。
同時に、新潟発着「雷鳥」の廃止と系統分割により、昭和44(1969)年の運転開始から32年間にわたった、大阪-新潟間の直通特急の歴史も潰えることになりました。ただしこちらは「白鳥」とは違い、年末年始やお盆などの多客期に「ふるさと雷鳥」なる臨時列車として運転されていましたが、それも平成21(2009)年のゴールデンウイークを最後に見られなくなっています。

この平成13年の改正は、日本の鉄道にとっては重要な意味を持つ改正でした。
それは、「白鳥」と新潟発着「雷鳥」廃止によって、JR在来線に500km以上を走行する昼行特急列車がなくなったことです。これは、少なくとも在来線においては、鉄道が長距離輸送を担わなくなったことを意味するものといえます。管理人が見るに、このころからJR各社が独自性を強め、他社直通列車を減らしていったように思うのですが、これは偶然の一致でしょうか。

次回は、485系の勢力縮小の過程を取り上げます。

-その15(№3099.)に続く-