昭和50年代は、国鉄が利用者減・合理化促進という逆風に晒された時代です。
そのような中にあっても、北陸系統は東北系統と並ぶ「特急街道」として、国鉄の金城湯池となってきました。特急列車においても、食堂車廃止の潮流が強まる中、「雷鳥」「しらさぎ」は全列車で営業を継続してきています。
昭和57(1982)年11月には、東北新幹線が本格開業し、上越新幹線も開業したということで、これを機会に全国的なダイヤ改正が行われました。
北陸特急も、以下のように変更を受けています(夜行は除く)。

1 急行「立山」2往復を格上げして「雷鳥」に取り込み、「雷鳥」は18往復に。
2 「加越」を1往復増発、「しらさぎ」と合わせ米原以遠では13往復を確保。
3 上越新幹線接続列車確保のため、「北越」を3往復増発。「はくたか」は廃止。
4 急行「しらゆき」(金沢-青森)を福井に延長の上格上げ、「白鳥」1・4号とする。食堂車なしの9連。大阪-青森間の列車は白鳥3・2号とする。
5 489系の編成を変更、グリーン車・食堂車各1両組み込みとする。これにより「白山」に食堂車が復活。
6 「雷鳥」の一部に489系の運用が復活。
7 「雷鳥」の583系の運用数が4往復→2往復に減少。

このころになると、優等列車は原則として特急化されることになり、その方針に則って「立山」が特急格上げの上「雷鳥」に統合されています(1)。米原口でも、急行「くずりゅう」が1往復を残して廃止され、新幹線との接続は殆ど「しらさぎ」「加越」に任せた格好になっています(2)。
長岡口でも、上越新幹線開業に伴い、接続列車としての「北越」を増発(3)、さらに「しらゆき」を格上げの上特急化しています(4)。ただ、この列車には食堂車がなく、「白山」で食堂車が復活したこと(5)や短距離の「北越」などにも食堂車が連結されていたことから見ると、アンバランスともいえましたが、もはやこのころになると在来線特急の食堂車も北陸地区と北海道地区以外は壊滅状態に陥ってしまったため、必要性よりも車両運用の都合が優先されてしまうことも、致し方ないことといえました。
18往復となった「雷鳥」も車両運用面での変化はあり、489系の運用が復活した一方(6)、583系の運用が減少しています(7)。583系の食堂車営業は、東北の「はつかり」「みちのく」がなくなったため、「雷鳥」2往復のみになり、希少価値が出てきました。

実はこのダイヤ改正の2年前、北陸自動車道の敦賀IC-米原JCT間が開業して名神高速とつながり、関西圏・中京圏と北陸が高速道路で結ばれています。これによって関西圏・中京圏から北陸への旅行に自家用車利用が増え、「雷鳥」「しらさぎ」などの北陸特急のシェアがじわじわと侵食され始めました。さらにその後、大阪や名古屋から北陸方面へ向かう高速バス路線が次々に開設され、北陸特急のシェアは以前に増して蚕食されていきます。
こうなると、国鉄屈指のドル箱系統だった京阪神・中京-北陸地区の都市間輸送ですら、もはや金城湯池として安閑としていられる状態ではなくなり、合理化に向けた動きが出てきます。
昭和59(1984)年の秋ごろから、「雷鳥」「しらさぎ」「北越」といった食堂車連結列車について、ある列車は食堂車が順次編成から外され(外された食堂車の号車は欠車)、またある列車は牛丼、シュウマイ、たこ焼きなどといった、ファストフードメニューのみの簡易営業に切り替えられています。この年の11月には、日本海縦貫線を全線走破する「白鳥3・2号」から食堂車が外され、さらに翌年1月には「白山」からも外されています。

そして東北・上越新幹線が上野に達した昭和60(1985)年の3月、全国的規模のダイヤ改正が実施されました。変更点は以下のとおり(北陸特急に関する事項のみ)。

1 「雷鳥」「しらさぎ」「北越」全列車の食堂車の営業を廃止。
2 「雷鳥」は編成を10連に変更。グリーン車1両のみの編成と、グリーン車1両+座敷車連結の編成と2種類。
3 「しらさぎ」「北越」は食堂車なし・グリーン車1両の9連に変更。
4 「加越」1往復増発、8往復化。
5 「白山」は1往復削減、2往復。編成は食堂車なし・グリーン車1両の9連に変更。
6 福井-青森間の「白鳥1・4号」について、新潟で系統分割、新潟以南を「北越」に編入。「北越」5往復化。
7 「白鳥」は大阪-青森間1往復に戻り、編成は食堂車なし・グリーン車1両の9連に変更。
8 「雷鳥」への583系の充当を終了。

この改正を機に、北陸特急は、グリーン車2両と食堂車組み込みの12連という重厚長大な編成を捨て、全て10連以下の編成と身軽になりました。しかも昭和47(1972)年以来、13年間も北陸特急劇場の主要アクターを務めた583系がその舞台を降りるという、寂しい話題もありました。
その中で注目を集めたのは、一部の「雷鳥」に組み込まれたお座敷車。このお座敷車は、編成から外された食堂車の中で車齢の若いものを改造し、食堂スペースを4人区画の準個室のお座敷に充て(7区画)、調理スペースは一部を残して車内販売カウンターとして活用した車両で、「和風車だんらん」という愛称がつけられました。このような車両が連結されたのは、余剰の食堂車の有効活用という面もあったことは事実ですが、それと同時に、列車に乗ることそのものを「売り」として位置付けるという、発想の転換があったことも指摘できると思われます。また、このころは所謂「ジョイフルトレイン」が国鉄で雨後の筍の如く次々に生まれており、団体旅行では高い人気を誇っていたことも、このような車両が登場した背景といえます。
この車両は、外形的には殆ど食堂車時代と変わりありませんでしたが、目を引いたのが窓の下にゴールドのラインを入れたこと。このゴールドのラインが「お座敷車」であることを誇示していました。扱い上はグリーン車となり、座席は区画単位(1区画4人)で販売され、よそのお客と相席にならないように配慮されています。

昭和61(1986)年11月に行われた、民営化を前提とした全国ダイヤ改正では、北陸特急は一部の列車の受け持ちを変更したことと、10連の「雷鳥」からT車1両を抜いて9連に変更したこと、上り「雷鳥」の1本が神戸着とされたこと以外、無風で推移しています。「白鳥」と「雷鳥」の一部が上沼垂の485系での運転となり、後に発足するJR東日本の担当列車ということになりました。
そしてその翌年、国鉄は分割・民営化され、北陸線はJR西日本の所属となります。「しらさぎ」の走る名古屋-米原間はJR東海の所属とされましたが、「しらさぎ」はJR西日本の485系がJR東海区間に乗り入れるという形態になりました。

JR化に相前後して、北陸特急のスピードアップ、使用車両のリニューアルなどの構想が具体化していくのですが、そのお話…の前に、次回と次々回は番外編として、北陸の夜行特急の歩みを取り上げます。
これまでの「北陸特急劇場」は昼行列車ばかりでしたから、こちらは所謂「マチネー」(昼興行)。次回と次々回は「ソワレ」(夜興行)となります。