その4(№3010.)から続く

昭和50(1975)年3月、山陽新幹線が遂に九州・博多へと達し、これを機会に国鉄では全国規模のダイヤ改正を行います。
山陽新幹線の開業により、それまで在来線の山陽線を行き交っていた「つばめ」「はと」「しおじ」など、夥しい数の昼行特急は全て消え、これら山陽~九州系統の特急を担当してきた向日町運転所(当時)の485系は、その半数近くが九州の南福岡電車区(当時)に移籍していきました。向日町に残った同系は、引き続き「雷鳥」など北陸特急を担当しています。
そして、この改正で満を持して、「雷鳥」「北越」ともそれまでの米原経由から湖西線経由に変更され、さらに「雷鳥」は急行の格上げなどで増発されて、その運転本数は、遂に2桁の12往復に達し、東の「ひばり」と比肩する本数となります。

「雷鳥」「北越」は、改正前まで東海道新幹線の東京方面からの接続列車としての任務も負っていました。しかし、両列車の湖西線経由への変更により、これまでの東京方面からの新幹線接続列車の任務を捨て、大阪対北陸の列車に特化されたという意味もあります。
勿論、この改正で「しらさぎ」も6往復と増発されたのですが、それだけでは「雷鳥」「北越」の穴を埋めるまでには至らず、接続列車の本数が足りません。
そこで国鉄は、米原を通らなくなった「雷鳥」「北越」の埋め合わせとばかり、新幹線接続に特化した特急列車を、米原-金沢・富山間で運転を開始します。これが「加越」で、本数は6往復。米原-金沢間では「しらさぎ」と合わせて12往復が確保され、東京方面新幹線との接続体制が万全なものとなりました。「加越」用には勿論485系が用意されましたが、これは向日町ではなく金沢に配属されています。

「加越」ですが、この列車は国鉄~JRの歴史上初めて、「新幹線接続特急」という使命に特化して設定された列車であると評されています。それまで、特急には一部の短距離列車を除いて必ず食堂車が連結され、編成も10連を超える大編成が当たり前だったのに対し、「加越」は当時の標準的な特急よりも短い7連。当時鉄道趣味界で「特急の権威を地に墜とした」として散々批判された、房総方面の特急用の183系ですら9連でしたから、それと比べても「加越」の短編成ぶりは際立っていました。それでも、グリーン車を1両組み込んでいるところは、流石と言うべきか否か。
それでも、やはり主要幹線で線路状態のいい北陸線をかっ飛ばすことができたからなのか、「加越」の表定速度は在来線特急の中でも上位にランクされ、全在来線特急中1位になったこともあります。編成内容こそ、これまでの特急に比べたら軽快な「加越」でしたが、スピードでは立派に特急の面目を保ったわけでして。
ちなみに、国鉄では特急列車の一群について、昭和47(1972)年10月の全国ダイヤ改正から、「数自慢・きっかり発車・自由席」を売りに「L特急」というカテゴライズをして宣伝していましたが、この改正を機に「雷鳥」「しらさぎ」と新顔の「加越」が「L特急」に指定され、時刻表などでその旨の案内がなされるようになっています。
なお、この改正では「はくたか」「白山」は、全くの無風で推移しました。「はくたか」は現場の強い要望(ブーイング?)にもかかわらず、依然として向日町の485系の担当となっています。
この改正によって、北陸特急は列車本数が大幅に増え、北陸線は現在に至るまで「特急街道」として確固たる地位を占めることになります。
ちなみに、「世界最長距離の電車列車」として勇名を馳せた「白鳥」ですが、新幹線が博多に達したことで東京-博多間の直通「ひかり」に走行距離を上回られ、「世界最長距離」の冠は失ってしまいました。それでも片道1000kmで、「在来線最長距離」のレコードは維持していましたが。

昭和51(1976)年、向日町の485系について、金沢の489系と編成内容を合わせるためか、輸送力の増強ということか、T車を1両組み込んで12連にする編成変更が行われました。東北系では早くから12連の編成が見られましたが、こちらは電動車4ユニットで食堂車とグリーン車が1両ずつなのに対し、向日町の485系は電動車3ユニットでグリーン車2両、そして勿論食堂車も連結ということで、編成内容はこのときが最も充実したものとなっています。

そして昭和53(1978)年10月2日の全国ダイヤ改正では、以下のように改正されました。北陸特急に関する事項のみ列挙します。

・大阪-新潟間「北越」を「雷鳥」に統合、その他増発と急行の格上げにより、「雷鳥」は16往復に。「北越」は金沢-新潟間特急の名称に。
・「しらさぎ」の583系充当を終了、「雷鳥」に583系の充当を開始。
・「はくたか」の担当を向日町から金沢に変更、1往復増発。車両は「白山」と同じ489系に。食堂車は廃止。
・「白山」の編成を電動車3ユニットから4ユニットに変更、食堂車を廃止。
・「白鳥」の編成を東北系と同じグリーン車1両に変更。

このころは急行列車の特急への格上げが積極的に行われた時期で、「雷鳥」の増発もこの流れに沿ったものでした。本数が増えるばかりでなく、「北越」との統合により、「雷鳥」が遂に新潟県へ到達したのも特筆されます。また、583系の「しらさぎ」運用が終了した一方、「雷鳥」運用が新たに開始されたことで、583系充当列車が入れ替わりました。
そして何より衝撃的だったのは、「白山」「はくたか」から食堂車が外されたことです。もともと、「白山」は信越線という山沿いの路線を走るため、3組ある電動車ユニットを1組解放してしまうと、ダイヤ通りの走行が困難という問題がありました。そこで、そのようなリスクを避けるため電動車ユニットを増やし、かつ、1編成当たり2基ある電動発電機(MG)を1編成あたり3基に増やす必要から、グリーン車2両を維持する(MGはグリーン車に搭載)一方、食堂車を外したものです。この編成変更と「はくたか」の「白山」との共通運用化により、両列車から食堂車が消えました。これには愛好家だけではなく一般利用者からの反発もあったようですが、このころは既に食堂車が退潮傾向に入っていて、食堂車の連結が、その列車に真に必要かどうかではなく、編成の運用上の都合が優先されるようになってしまっていることを、如実に物語る事例と言えました。

このようにして、北陸特急は国鉄時代の爛熟期を迎えるのですが、一方では「白山」「はくたか」の食堂車連結がなくなったなどの後退もあります。
その後退は、昭和57(1982)年以降顕著になるのですが、そのお話はまた次回。

その6(№3027.)に続く

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