都交通局が「アローズ」三兄弟の次に「都市新バス」化を手がけた路線。それは、「都01」(←橋89)との兄弟路線だった「橋85」でした。
「橋85」は、「都01」とは起終点を同じくする兄弟系統であり、都電の代替系統であるという出自もまるっきり同じですが(ただし橋85が代替した都電34系統は金杉橋までだった)、経由地は全く異なります。「都01」が南青山や西麻布・六本木・溜池など、東京の華やかな場所・賑やかな場所を経由しているのに対し、「橋85」は恵比寿・広尾・麻布十番など、住宅地や病院・学校などが多い場所、どちらかというと閑静な場所を経由しており、「都01」よりも生活感の強い路線でした。両者が共通なのは起点と終点だけで、その他は何から何まで正反対といっていい、合わせ鏡のような兄弟関係です。
しかも、「橋85」を所管していた営業所は、渋谷ではなく目黒。当時は営業所ごとに車種の指定があった時代で、目黒は日野車が指定されていましたから、渋谷駅東口のバスターミナルでは、居並ぶ三菱車の中に一団を形成している日野車は、異彩を放っていました。
昭和50年代の「橋85」は、当時まだ地下鉄がなかったエリアを走っていたため、乗客数も非常に多く、目黒営業所屈指のドル箱路線でした。
都交通局はそこに目を付け、「橋85」の都市新バス化プロジェクトがスタートします。

平成2(1990)年、目黒営業所に都市新バス仕様の日野車が大量投入され、また各バス停にバスロケーションシステムが整えられました。同年3月31日から橋85改め「都06」が、年新バスの4系統目(『アローズ』三兄弟を1系統としてカウント)走り始めました。都市新バス化によってバスロケーションシステムの整備や車両のグレードアップなどの体質改善が行われたのは勿論ですが、「都06」は都市新バス化を機に、それまで半数が渋谷駅~赤羽橋の折り返しだったものを改めて、全便新橋駅に入れることにしたため、赤羽橋~新橋駅間では大増発となり、さらに利便性が増しました。
そして「シャトル」「ライナー」「アローズ」ときた愛称は、今度は「グリーンエコー」。エコー(echo)とは「谺(こだま)」の意味ですが、恰も谺のように「行って帰ってくる」という利便性の高さを売りにしたのでしょうか。だとすると、国鉄(当時)が初の電車特急に「こだま」という名前をつけた経緯と全く一緒になってしまうのですが。
ともあれ、「橋85」改め「都06」の都市新バス化は、勿論大成功。当時の麻布十番や赤羽橋は、都営大江戸線や南北線の開業前。そのためこれらのエリアの公共交通はバスしかなく、そのことも相まって「エコー」は大盛況となります。
なお、前後しますが、都市新バス化に先立つ平成元(1989)年、「橋85」に深夜バスが登場、こちらもバブル絶頂期の好況などが追い風となり、盛況を収めました。

「都06」で触れておかなければならないのは、渋谷駅-目黒駅間の出入庫便の存在。
この出入庫便自体は、「橋85」時代からありましたが、ルートは渋谷駅-天現寺橋の手前までが本系統と同じで、天現寺橋の手前で交差点を右折、あとは「橋86」や「黒77」と同じルートで目黒駅へ向かうというものでした。出入庫便なので時間帯ごとの運転本数のバラツキが不可避的に生じていましたが、それでもこのエリアの公共交通はバスしかなかったため、狙って利用する固定客も少なからずいたそうです。ただし天現寺橋バス停には停車していなかったらしいので、その点だけは玉に瑕(きず)だったかと思います。
この出入庫便は、「エコー」となってからも引き続き設定され、やはり固定客をつかんでいました。

しかし、そんな状況に変化が生じ始めたのが平成11(1999)年。
この年は、翌年に南北線の溜池山王~目黒間全線開業、都営三田線・都営大江戸線の全線開業を控えていたことから、目黒営業所が所管していた路線が大幅に改廃の対象になるであろうことが予想されました。そのためか、この年から、目黒営業所は段階的な縮小の準備に入ります。
まず手始めとして、看板系統の「都06」を渋谷に移し始めます。勿論いきなり全てを移管するのではなく、最初は渋谷営業所との共管という措置がとられました。しかしその後、目黒担当便は徐々に数を減らし、遂に平成15(2003)年4月1日、「都06」は渋谷に完全に移管されました。車両は勿論渋谷へ転属、それまで三菱車によって占められていた渋谷に日野車が登場しています。現在は営業所と車種の関係は希薄になりましたが、当時は非常に衝撃を受けたものです。
「都06」の完全移管に先立つ平成14(2002)年には、深夜バスが廃止され、合わせて渋谷駅-目黒駅間の出入庫便が廃止されました。
なお、目黒営業所は、都営大江戸線が全線開業した平成12(2000)年12月12日付で支所(品川自動車営業所目黒支所)に格下げされていましたが、その3年後、平成15年4月1日付でさらに分駐所に格下げされました。この分駐所への格下げの際、車両に表記される営業所コードがそれまでの「M」から「A」に改められ、営業所コード「M」が消滅しています。この体制も長くは続かず、分駐所化から僅か2年後の平成17(2005)年3月28日、遂に目黒分駐所は閉鎖されました。この場所にはかつて都電の車庫があった頃の建物が残っていましたが、分駐所閉鎖後程なく取り壊され、跡地はコインパーキングなどになっています。そして同時に、分駐所だった港南車庫が支所に格上げ(品川自動車営業所港南支所・営業所コードY)され、車両はそちらに移されています。
余談ですが、平成20(2008)年4月から翌年3月までの1年間だけ、どういうわけか「都06」は渋谷と品川との共管になっています。なぜこのような共管体制となったのかは謎ですが、車両需給や路線受け持ち数の関係があったからでしょうか。そういえばこの1年間だけ、これもどういうわけか「渋88」が品川の担当だったことがあるのですが、このこととも関係しているのですかね。

「都06」自体も、南北線や都営大江戸線の開業で打撃を受けました。
「都06」は都営大江戸線開業に伴って、渋谷駅-赤羽橋間の区間便を減らし、さらにラッシュ時の便数を減らしました。それでも地下鉄で相互に行き来するには不便なエリア同士を結んでいるため、利用率は依然として高水準を維持しています。運転本数も、1時間あたり7~8本と、都市新バスの面目を保っています。

現在もなお、高い利用率を維持している「都06」。「都01」とは何から何まで正反対な路線ですが、愛好家的視点で眺めた場合、むしろそのことが「都06」の一番の魅力ではないかと思います。
次回は「下町の星」都07を取り上げます。

-その6に続く-

※ 当記事は02/11付の投稿とします。