前回述べたように、「橋89」が都市新バスの第一号「都01」に衣替えをしたことで、乗客も増加、「都01」は渋谷営業所の看板系統になりました(前回都01の担当を渋谷営業所と明示していませんでした。大変失礼しました)。
「都01」の大成功に気を良くした都交通局は、「都市新バス」の第2弾の路線をどこにするか、その検討に入ります。
そして選ばれたのは綾鷹…ではなく、大塚営業所(※)の基幹系統だった「塚20」でした。

「塚20」は、かつて大塚駅前から錦糸町駅至近の錦糸堀まで達していた都電16系統の代替で、大塚から茗荷谷・春日・本郷・上野広小路などを経由することから乗客が多く、大塚営業所屈指の優良路線でした。都交通局は、それだけの優良路線だけに、テコ入れの甲斐があると判断したのでしょう。
ただ問題は、「都01」に比べて路線の距離が長かったことと、またそれ故に「都01」以上に定時性には難があったことです。
都営バスなど東京23区内のような「運賃前払い制・均一運賃」の方式だと、長距離を乗る客が多ければ多いほど収益性は悪くなり、短距離又は乗客が頻繁に入れ替わる系統の方が、実は収益性としては上なのです。余談ですが、昭和40年代から50年代にかけて、民営バスと共同運行していた都心部と郊外を直結する路線の多くが廃止あるいは分断の憂き目に遭ったのは、運行距離が長いことによる定時性の低下も大きな理由でしたが、「運賃前払い制・均一運賃」という制度による収益性の悪さも一因となっています。
そこで「塚20」ですが、前述のように茗荷谷・春日・本郷・上野広小路などを経由することから、これら拠点の停留所で乗客が入れ替わる傾向が顕著で、全区間を乗り通す乗客は少なかったので、収益性の面では全く問題がなく、むしろ優秀な路線といえました。
そして第二の定時性ですが、折角の優良路線なので定時性に難があることで乗客が逸走するのは勿体無いという判断があったのでしょう。「都01」で先鞭をつけたバスロケーションシステムは、この路線のような、定時性に難がある路線にこそ威力を発揮したように思います。

昭和61(1986)年3月3日、前日までの「塚20」は「都02」と装いを改め、華々しいスタートを切りました。先発の「都01」の愛称が「グリーンシャトル」だったのに対して、こちらは「グリーンライナー」。「グリーン」は都営バスの外板塗装の色からの連想ですが、「シャトル」の次は「ライナー」ときました。英語の「シャトルshuttle」は「(2点間を結ぶ通例短距離の)折り返し運転・定期往復便」、「ライナーliner」は「(飛行機の)定期便」という意味があり(出典は大修館書店刊『ジーニアス英和辞典』によりました)、いずれも定期便という印象です。しかしやはり英語の原義でも日本語の印象でも、「ライナー」よりも「シャトル」の方が頻発している印象を受けます。これは、「都02」が「都01」より距離が長かったからかもしれませんけど。
車両も「都01」同様専用車が用意されましたが、当時は営業所と車種との関係が厳然と存在した時代だったので、いすゞ指定だった大塚営業所には、いすゞの都市新バス仕様車、所謂キュービックの特別バージョンが配属されました。いすゞの都市新バス仕様車は、同型の車両が東急バス(当時は電鉄の直営)瀬田営業所にも配属され、「渋11」に投入されています。こちらは、当時三菱の車で固められていた瀬田にいすゞの車が入ったということで、管理人は驚愕したものです。その後どの会社も、会社自体に車種指定がある国際興業や伊予鉄道のようなところ以外は、営業所と車種の関係は殆どなくなってしまいますが。

かくして、「都02」は順調な滑り出しを見せた…のですが、実際には全便を賄いきれるだけの専用車が用意しきれず、一部は一般車両を用いての運行となりました。その一般車は、まだキュービック以前の「いすゞCJM」といわれる、一時代前のモノコックボディの車が大量に残っていた時代。そのため、「都02」には、キュービックの一般車は勿論、CJMも老体に鞭打って(?)に活躍しました。
当時はバスの内外装の進歩も日進月歩で、モノコックからスケルトンへ、非冷房から冷房搭載へなど、劇的な進化の渦中にありました。一般路線車でも、モノコックボディの車とスケルトンの比較的新しい車との間には格差があったのですが、さらにスケルトンの車と都市新バス仕様車との間にも厳然たる格差がありました。そのため、大塚営業所でも、

CJM<キュービック<都市新バス仕様車

という図式が成り立ち、同じ運賃でありながら、あるときは都市新バス仕様車、あるときはCJM(勿論冷房は搭載していましたが)という事態が出来しました。沿線の子供たちは、CJMで運行される「グリーンライナー」を「ボロライナー」と呼んでいたそうです。いつの時代も、子供はあだ名付けの天才ですね。
それでも平成2(1990)年ころまでには所要の車両数が揃い、「都02」から「ボロライナー」が一掃され、名実ともに「グリーンライナー」となります。

「都02」の転機となったのは、平成12(2000)年12月の都営大江戸線環状部開業でした。これによって、本郷三丁目~蔵前間が完全に並行するため、廃止とはいかないまでも分断や減便のおそれは多分にありました。
しかし、豈図らんや「都02」は多少減便をしただけで路線そのものは維持され、現在でも10分間隔以下の運転間隔を保っています。これは、「都02」の乗客流動が全線を通すものが少なく、多くの短区間が重複するような形態になっているため、適当なところで分断することができなかったというのが理由です。また、これはあくまで結果論ですが、都営大江戸線の駅はどれも地下非常に深い場所にあり、乗場に達するのと電車から降りて外に出るまでが時間がかかるため、短距離利用の場合には地べたで乗り降りできるバスが利便性で優ったため、残った並行系統はそれなりの利用率を維持しています。
同時に、「都02」には一部停留所にしか停車しない急行系統が新設され、「急行02」と名付けられました。これは大塚駅~春日駅間の速達便ですが、あまり利用は振るわなかったようで、2年後の平成14(2002)年12月、あっさりと廃止されてしまいました。

「都02」を担当してきた大塚営業所は、将来的な廃止を睨み担当系統を減らしており、現在は巣鴨の支所という位置づけになりました。担当系統も「都02」と「上60」しかありません。
しかし、「都02」はまだまだ需要が旺盛で、都市新バスの名にふさわしい運転本数を維持しています。今後は巣鴨などへの移管が進むのでしょうが、大塚営業所ともどもどうなるのか、今後に注目したいところです。

その3(№2695.)に続く

※ 大塚営業所は現在は「巣鴨自動車営業所大塚市所」となり、巣鴨営業所の傘下になっていますが、当記事では「都02」運行開始当初の「大塚営業所」で統一しています。