今回から12回(予定)に分けて、都営バスの「都市新バス」について取り上げようと思います。連載のテーマにバスを選ぶのは初めてですが、何卒宜しくお付き合いの程を。
なお、タイトルは当初「Metropolitan Omnibus」としていましたが、表記のとおり改題しました。

元ネタは平松愛理さんの「素敵なルネッサンス」という歌だったんですけどね(^_^;)

…それはさておき。本題に入りましょう。

「都市新バス」とは最近あまり聞きませんが、バス停にロケーションシステムを装備して大凡の待ち時間を表示、さらに当初は一般系統よりもハイグレードな専用車を使用して運行していたもので、他の都営バスの一般系統とは一線を画していました。勿論、それで運賃が割増かといえばそんなことはなく、一般系統と同じでしたが。

「都市新バス」の誕生の経緯は、よく知られているところではありますが、一言で言えば「都会のバスの復権」を意図したものでした。
東京都は1960年代からの自動車交通の激増という現実を直視し、都電を交通渋滞の元凶あるいは赤字による都財政圧迫の要因であるとして都電の廃止を決断、昭和42(1967)年から48(1973)年にかけて撤去を実施、現在の荒川線を残して撤去を完了し、路線は一部を除きバスに代替されました。ではこれでバスが走りやすくなったかというと、必ずしもそんなことはなかったのです。さらなる自動車交通の激増に伴い、バス路線の所要時間の増加と定時性の喪失が顕著になってきました。
かくして、路線バスは(都営バスに限りませんが)「遅い」「いつ来るのか分からない」という風評が立ってしまいます。実際にその頃の路線バスでは、いくら待っても来ない、来たかと思えば団子運転というのが当たり前に見られました。管理人も実際にそのような状況に遭遇したことが何度かあります。
そのため、バスも利用者の減少が進み、赤字状態になった都交通局は、昭和52(1977)年と54(1979)年、2度にわたる路線の大規模改廃を実行しました。
しかし、そのような大規模改廃は、不採算路線の整理という目的は達成できたものの、バス路線の定時性低下という、より深刻かつ根本的な問題に切り込むものではありませんでした。

このころ、都交通局内部でも、東京都内には定住人口や就業人口が多いことから、バス路線の定時性を改善して積極策を取れば、乗客は戻ってくるのではないかということが、期待を込めて考えられるようになりました。
そこで、バスの復権を賭けたテコ入れが、路線を選んで行われることになります。
定時性低下に対する改善策は、乗客の「遅い」「いつ来るかわからない」という不満を払拭することに力点が置かれました。具体的にはバスロケーションシステムを採用し、バスがどのあたりにいて、どのくらいで当該停留所に来るかをビジュアルで示し、乗客にわかるようにする。そして主要バス停までの大凡の所要時間を示し、乗客に対して予測可能性(といえば大袈裟ですが)を持たせることが考えられました。現在はインターネットが普及し、GPSシステムも整備されていますから、このようなシステムの構築は容易ですが、当時はインターネットもGPSシステムもなかったことから、バス停にセンサーを仕込み、該当のバスが通過したことをセンサーで感知して、バスの位置を知らせるというシステムが作られました。
そして、車両についても刷新が図られました。
当時は都電の代替用として大量導入した車両がまだまだ残っており、これらの車両は冷房を搭載していません。当時は一般路線バスの冷房が普及し始めた時期ではあったものの、まだ現在のような当たり前の装備ではなかった時期です。
そこで、該当路線に充当する車両は全て冷暖房完備とし、観光・貸切車のようなハイバックシートを装備した、ハイグレードな新型車両が用意されることになります。当時の都営バスは、営業所ごとに車種の区別が厳然と分かれていた時代であり、営業所ごとの車種の差異も、趣味的には楽しいものでした。

では具体的に、どの路線がこういった「テコ入れ」対象になったのか。
その嚆矢は、渋谷~六本木~溜池~新橋と走る「橋89」系統でした。
渋谷と新橋を結ぶ系統は「橋89」だけではなく、様々なものがありました。麻布十番や赤羽橋を通って新橋へ向かう「橋85」(→都06)、六本木から先は溜池ではなく神谷町を通り新橋に至り、さらに東京駅八重洲口に至る「東82」(→渋88)などがありましたが、なぜこの系統だったのか。
それは、渋谷を出ると南青山、西麻布、六本木、溜池、虎ノ門を通って新橋へ達するというルートのため、乗客が非常に多かったことによります。渋谷や六本木・新橋はそれ自体繁華街ですし、溜池や虎ノ門はオフィス街。そのため多くの乗客を集めていました。なお付言すれば、「橋89」は元を正せば都電6系統(渋谷-南青山-西麻布-六本木-溜池-虎ノ門-新橋)の代替系統であることや、地下鉄では渋谷-六本木や六本木-新橋相互間の行き来が不便なため、もともとの利用が非常に多いのです。ちなみに、都電の系統は41ありましたが、その多くが現在でも乗客を多く集めるドル箱路線となっています。

以上のような経緯から、「橋89」が「『都市新バス』へのテコ入れ路線第一号」となり、停留所などの改修が図られます。特に渋谷駅のそれは、東口バスターミナルの中央にバスプールを設けてそれと一体化したもので、実に広々としたものでした。現在は改良工事のため全部潰されてしまい、東口の原宿寄りから出るようになっています。あわせて専用車も用意され、南青山付近のルートも、それまでの所謂「骨董通り」経由だったものを、六本木通りを直進するルートに改められました。
そして昭和59(1984)年3月31日、「橋89」改め「都01」が専用車での運行を開始しました。その後の同年6月ころ、単に「都市新バス」と言い習わされていた「都01」に「グリーンシャトル」という愛称がつき、都交通局の案内などにもこの愛称が使用されるようになりました(※)。

※=私は当初、都01の運行開始と「グリーンシャトル」の愛称付与は同時だとばかり思っていたのですが、そうではなかったようです。目黒秋刀魚様、ご指摘ありがとうございました。

「都01」は、それまでバス利用者が抱いていた「遅い」「いつ来るのかわからない」というネガティブなイメージを払拭し、それによって乗客が増えていきました。その後赤坂アークヒルズの開業に伴って、渋谷駅-赤坂アークヒルズの区間便が誕生したり、渋谷駅-六本木ヒルズの区間便が誕生したりしています。さらにその後、東京ミッドタウンへの区間便も登場しましたが、こちらは思ったほど客足がつかず、その後ほどなく廃止になってしまったのは残念でした。
本体の方は、平成9(1997)年の溜池山王開業に伴ってアークヒルズなどの利用者がそちらに流れてしまい、新橋側で本数が減少したこともありますが、それでも新橋側の運転間隔は平日日中で6~7分と、都市新バスの面目は保っています。

東京におけるこれ以上の地下鉄網の充実はもはや望み薄となり、仮に新路線が有り得るとしても「都01」のルートに並行する路線の建設は困難でしょうから、今後も「都01」のドル箱状態は続くものと思われます。

都交通局は、「都01」の成功に気を良くし、都市新バス第2の路線の整備を検討し始めます。第2の路線は、「都01」同様都電代替系統を出自とするものでありながら、「都01」とは全く異なり、かつ長距離の路線でした。