1日遅れのアップでございます。

さて、「都市計画8号線」こと有楽町線の開業ですが、最初の開業区間は池袋-銀座一丁目間で、開業日は昭和49(1974)年10月30日。各駅のホームは10連対応でしたが、実際の列車は半分の5連。千代田線用6000系をベースにした兄弟車7000系が用意されました。
ちなみに、今年は西暦2013年ですから、この第1期区間開業から40年目の節目にあたるわけですね。

この路線については、当時の営団地下鉄も力を入れたようで、いくつかの新しい試みがなされました。

1 路線名の一般公募
路線開業に先立ち、営団地下鉄は路線名称を公募しています。千代田線のときは職員から募集しましたが、今回は史上初の一般公募。そしてその栄えある得票数第1位は、現在の有楽町線ではなく「麹町線」でした。これは言うまでもなく、路線の経由地からとった名称です。現在でも麹町駅は現有楽町線にしかありません(他路線との乗換駅になる可能性も低い)から、路線名称としては秀逸なのですが、ネックだったのは字。なぜかというと、「麹」の字が当用漢字になく、字画も多く難しいことが危惧されたから。そのため、せっかくの最多得票でありながら、採用は却下とあいなりました。
代わりに採用されたのが現在の有楽町線。「有楽町線」の名称自体は得票数下位でしたが、似た名称の「有楽線」を合わせると「麹町線」より得票数が多くなり、かつ難しい漢字もないため、こちらに決まったとか。珍しい路線名としては「黄昏銀座線」「カンガルー線」(袋が有るから?)、果ては「メロッパチ線」(メトロの8号線の意?)などというものもあったようです。
ちなみにその後、半蔵門線が開業した際には、「銀座線とか日比谷線、有楽町線といっても、路線名の駅にはその路線以外の路線も乗り入れているから、どの路線かわからない」という声があったことで、他路線との乗り換えのない駅から名前をとって「半蔵門線」としています。
これは完全な余談ですが、現在はコンピューターが爆発的に普及し、文章を作成するにしても手書きをする機会が激減しています。これに対して1970年代はまだまだ手書きが幅を利かせていた時代。「麹町線」が却下されてしまったのは、こういう時代背景もあったのでは…と思ってしまいます。

2 自動改札機の試用とその蹉跌
将来の駅改札業務の合理化を見込み、有楽町線では自動改札機が試用されました。これは、当時の開業区間には既存路線と改札内で乗り換えることのできる路線が存在せず、改札システムを自路線だけで完結させることができたことが理由です。
ちなみに、第一期開業区間でも、池袋で丸ノ内線、飯田橋で東西線、有楽町で日比谷線・千代田線と乗り換えることは可能でした。しかし、いずれも「改札外乗り換え」であり、有楽町線と改札内で接続する路線は昭和54(1979)年、半蔵門線が永田町に伸びてくるまでは存在しませんでした。
こういう「自路線完結」の路線は、様々な画期的な試みに挑戦しやすいのでしょうか。後年、営団が平成3(1991)年に南北線駒込-赤羽岩淵間を開業させたときは、同線が他路線と一切接続がないことを逆手に取り、ストアードフェアシステム(NSメトロカード。後のSFメトロカード)の試用をしたことがあります。こちらのシステムは、5年後の四ツ谷延伸で他路線との接続ができたときに営団全路線に拡大されています。
南北線のストアードフェアシステムとは異なり、こちらの自動改札システムは、結局他路線に普及することはなく、一旦有人改札に戻されてしまいます。
その理由は、他路線からの乗り継ぎ客が、発駅で購入した「非磁気化券」(自動改札機に対応していない切符)を自動改札機に突っ込んでしまい、そのためにトラブルが続発したことに手を焼いたのが理由だそうです。営団地下鉄に自動改札システムが普及するのは、ずっと時代が下った1990年代までかかることになります。

3 駅サインシステムの本格的な採用
有楽町線での初の試みとして、最も乗客の目に付く、インパクトがあったのはおそらくこれでしょう。
それまでは、各路線のカラー(ラインカラー)自体はあったものの、統一的なデザインはありませんでした。そこで営団は、案内表示などを見やすくするために統一的なデザインを導入することに決定し、まずは大手町駅で試行しました。これを路線単位で全面的に採用したのが有楽町線第一期開業区間でした。
現在は駅ナンバリングや路線のアルファベットコード導入などで、印象が少々変わっていますが、ラインカラー色の環で路線を表すという基本的なデザインは、現在でも受け継がれています。また各駅にもラインカラーの帯を配し、有楽町線の駅であることをアピールしています。
ちなみに、有楽町線のラインカラーは、かつての7000系の黄色い帯から、イエロー(黄色)では? と言われることも多いのですが、実際には黄色ではなく「ゴールド」(金色)とされています。これはおそらく、日比谷線が「シルバー」(銀色)とされていることとの対比なのでしょうね。余談ですが、日比谷線のラインカラーも、シルバーというよりはグレーだと世間では認識されているような…。

…とこのように、様々な新機軸を満載して開業した有楽町線。
しかし、泣き所は車両基地でした。現在有楽町線の車両基地は和光市と新木場にありますが、第一期開業の時点ではそこまで路線が達していません。
そこで、営団は、飯田橋に5連×6本が留置できるスペースを作ってそこで検査などを行えるようにしました(飯田橋検車区)。そして桜田門から千代田線霞ヶ関へ連絡線を建設し、大規模な検査・修繕は綾瀬検車区で行うようになりました。

その後、営団は昭和51(1976)年に銀座一丁目-新富町間、昭和53(1978)年に池袋-小竹向原-成増間の工事に着手します。
しかし、小竹向原-成増間は、13号線として計画された路線。にもかかわらず、有楽町線の延伸区間として建設されるようになります。