いよいよ2013年となりました。改めて新年のご挨拶を申し上げます。今年は管理人の一身上の都合により、新年を寿ぐご挨拶はできませんが、なにとぞご容赦を。

この年3月から、東急東横線が東京メトロ副都心線、さらにその先の東武東上線・西武池袋線との相互直通運転を開始し、東京の交通地図がまた塗り替えられることになります。
この相互直通運転は、関係する鉄道事業者が5つあることから、鉄道趣味界では「5直」などと称されています。このように、「5直」の実施は鉄道趣味界にも大きなインパクトを与えるものですが、そのインパクトはもちろん鉄道趣味界にとどまらず、一般社会にも大きいものがあります。
そこで、今回予定される「5直」開始を記念し、当ブログでは昨年の段階で「5直」の主役となる副都心線、及びそれと表裏一体の関係にある有楽町線をフィーチャーする連載記事を企画しました。これが今回から開始する本連載「YとFの肖像」ですが、昨年一旦棚上げにした理由は、上記「5直」開始とともに東横線からの日比谷線直通列車が廃止されるというアナウンスが当事者の東急電鉄・東京メトロ両者から正式になされたため、日比谷線直通列車廃止の記念記事を優先的にアップすることにしたからです(その連載記事『涙の軌道』の概要はこちら)。
このたび、年も改まり、かつ3月には「5直」が実際に開始されることを記念し、改めて本連載を開始させていただきます。

ご挨拶はそのくらいにしまして、本題に入りましょう。

副都心線と有楽町線は、両路線が互いに連理の枝のごとく密接に絡み合う関係となっていますが、その余りにも密接な関係性は、両路線の計画・建設の経緯と深く関わっています。

有楽町線の計画が初めて具体的な形で示されたのは、昭和43(1968)年の都市交通審議会答申第10号(以下『第10号答申』という)でした。同答申においては、有楽町線の計画は「都市交通8号線」とされ、「成増及び練馬の各方面より向原及び池袋の各方面を経由し、また、中村橋方面より目白方面を経由し、護国寺、飯田橋、市ヶ谷、永田町、有楽町及び銀座の各方面を経て明石町方面に至る路線」として示されています。
もちろん、このような路線の原案は、決してある日突然出てきたものではありません。既に戦前期からこの路線の原案らしきものはありましたが、今につながるものとして形をもって現れたのは、昭和37(1962)年の同審議会第6号答申(以下『第6号答申』という)でしょう。第6号答申においては、丸ノ内線を池袋から北西へ延伸する形で、池袋-小竹向原-成増間の路線の建設計画が示されていました。これが丸ノ内線の延長という形態ではなく、第10号答申の段階で「都市計画8号線」なる全く別個の路線とされた理由は、①当時既に混雑が激しくなっていた丸ノ内線の混雑緩和と、②東武東上線・西武池袋線からの都心直通路線としての意味合いを持たせることでした(丸ノ内線は第三軌条方式のため、郊外路線とは乗り入れが困難)。
ここで注目すべきなのは、「都市計画8号線」が途中駅で分岐して東武・西武双方の都心直通列車を受け入れる体制になっていたことです。後述するように、その後の計画の修正により、東武とつながるのは「都市計画13号線」こと副都心線となり、「都市計画8号線」は西武とつながる計画とはなりましたが、両者の密接な関係はここに発端があるとみることができます。

その後、「都市計画8号線」の建設計画は、第10号答申に現れた当初計画から、いくつかの修正を経ます。まず、当初計画にあった、護国寺から分岐させ、目白付近を通り西武線中村橋と結ぶ路線について、分岐駅を小竹向原にして目白経由を止め、池袋経由に一本化しています。そして、明石町(現新富町)から先の湾岸地区への延伸計画に関しては、当初計画では浦安・市川・船橋の湾岸部への延伸も目論まれていましたが、国鉄京葉線(当時)の旅客線化計画が具体化したことから、湾岸(現新木場)までの路線に改められたことです。
結局、「都市計画8号線」は起点を保谷とし、池袋から先は当初計画どおり、明石町から先は湾岸までとする路線となり、分岐線として豊洲-東陽町-住吉-押上-亀有間が追加されました(住吉-押上-四ツ木間は11号線(現半蔵門線)と共用)。つまり、計画段階にとどまる分岐線を別とすれば、本来の8号線は、現在の練馬駅から分岐して小竹向原を経由し、池袋-飯田橋-永田町-有楽町-新木場(いずれも現駅名)の路線ということになります。このことからお分かりのように、東武からの直通は別路線に任せる形態になったといえます。
しかし実際には、有楽町線は「和光市-新木場間」と案内されており、一般の乗客もそのように考えています。

では小竹向原から和光市までの路線は8号線ではないのか、ということになりますが、実はそのとおりでして、「都市計画8号線」の計画が示された第10号答申の出た4年後、昭和47(1972)年の都市交通審議会答申第15号(以下『第15号答申』という)において、「都市計画13号線」として提示されました。この路線は、「(志木から)和光市、成増、向原、池袋、東池袋、目白東、諏訪町、西大久保を経由して新宿へ至る路線」となっています。第15号答申における「都市計画13号線」は、新宿・渋谷を経て、渋谷からさらに品川・羽田空港方面への延伸も検討されていましたが、昭和60(1985)年の運輸政策審議会答申第7号では、終点を渋谷とすることが示されました。
つまり、これら一連の答申を見る限り、有楽町線と副都心線とは(密接な関連があったとしても)全くの別物の路線、ということになります。
この「全くの別物の路線」という関係性が最も顕著に現れているのは、小竹向原駅の配線です。同駅は西武有楽町線が分岐し西武池袋線とつながっていますが、西武有楽町線の線路が素直につながっているのは新木場へ通じる有楽町線の線路であり、副都心線へ直通しようとすると有楽町線の線路を跨ぐことが必要になります(現在は改良工事中)。これに対して、和光市方面からの線路は新木場方面ではなく渋谷方面の副都心線の線路とつながっていて、新木場方面へ向かうには分岐器を渡らなければなりません。

このように、計画段階から密接に絡み合う関係があった両路線。
次回は、両路線の一部が実際に開業したときのことを見ていきます。

その2(№2438.)に続く

※ 当記事の投稿は01/15付とします。
※ 01/17 一部修正