日比谷線の建設は、昭和34(1959)年に着手され、2年後の昭和36(1961)年3月28日、第1期開業区間となる南千住-仲御徒町間が開業しました。
当時の使用車両は「マッコウクジラ」3000系の2連。3000系は輸送量の伸びとともに編成を伸ばしていき、最後には8連となりましたが、このときはたったの2連。しかも、当初は先頭部をスカートで覆い、連結器を露出させていなかったため、より「マッコウクジラ」に近い風貌でした(管理人はもちろん自身が生まれる前の話であり、写真でしか見たことがありませんが)。
その翌年の昭和37(1962)年5月、北千住-南千住間と仲御徒町-人形町間が開業、同時に東武伊勢崎線との相互直通運転が始まりました(東武側の乗り入れは北越谷まで)。このとき、2連だった3000系は4連に延ばされています。東武は乗り入れ用として2000系を用意しましたが、この車両は東武の通勤車としては初となる「高性能車」で、3000系同様のオールM方式となっています。ただし車体は普通鋼製とされ、日比谷線を走る車両の中では、これまでのところ唯一の塗装車となっています。塗装は当時の東武通勤車の標準色だったオレンジとベージュのツートンカラーでした。
ところで、昭和37年から乗り入れ開始ということは、今年平成24年、2012年は日比谷線と東武の相互直通運転が開始されて満50年の節目に当たるのですね。
そして昭和38(1963)年、日比谷線は遂に銀座(東銀座)に達します。これで東武沿線から茅場町や銀座に直行するルートができ、沿線の住宅開発とも相まって、利用客が激増していきました。

ここから先は、現在の銀座駅(当時は銀座総合駅と呼んでいた)から霞ヶ関駅までの工事が遅れ、営団は昭和39(1964)年3月に、既開業区間とはつながっていない、霞ヶ関-恵比寿間を開業させます。この開業には3000系4連が用意されましたが、車両は当面東急碑文谷工場(学芸大学-都立大学間の下り線沿いにあった)の留置線に留置され、終電後に中目黒に仮線を設置し、そこから送り込んだとのことです。また、このとき東急7000系も送り込まれ、恵比寿(後の中目黒)-霞ヶ関間で営業運転に就いています。現在、東横線に東京メトロの10000系や7000系が送り込まれて営業運転に就いたり、メトロや西武・東武に東急5050系が送り込まれたりしていますが、あれは初めてではなく、東急7000系という「前例」があったわけです。
また、霞ヶ関-恵比寿間の開業時には、南千住方面と線路がつながっていないため、広尾-六本木間の地下に留置線を設け、そこで検査などを行いました。この留置線は現在でも生かされていて、終電後の車両の留置や、平日朝ラッシュ時の「六本木行き」の車両取り込みに有効活用されています。
昭和39年は、7月22日に恵比寿-中目黒間がつながり、東急東横線から六本木・霞ヶ関へのルートができあがりました。ただしこのときは、まだ東横線と日比谷線との相互直通運転はしていません。

そして遂に同年8月29日、最後まで残った霞ヶ関-東銀座間が開業し、ここに日比谷線北千住-中目黒間が全線開業、このときから東横線と日比谷線の相互直通運転が始まりました。
ただし、相互直通運転の実際の形態は、東武直通は中目黒発着、東急直通は北千住発着として、東急-日比谷線-東武の3社を直通する列車はありませんでした。営団車も東武直通と東急直通とで運用が分けられていて、東武の保安装置しか搭載していない編成、逆に東急の保安装置しか搭載していない編成が存在していました。東武・東急双方に乗り入れることができる編成は、3000系の最大在籍編成数38編成のうち、わずか8編成にとどまっています。
また、最後の開業区間にできた銀座駅は、既存の銀座線・丸ノ内線との乗換駅とされましたが、銀座線側は銀座四丁目付近で交差しているのに対し、丸ノ内線側は数寄屋橋側で交差していました。そのため、日比谷線の開業する前は、丸ノ内線の銀座駅は「西銀座駅」と称していましたが、日比谷線の開業に伴い銀座駅に統合されています。ちなみに、数寄屋橋付近に高速道路の高架が通っていますが、その高架下の商業施設が「西銀座デパート」と称することや、付近の宝くじ売り場が「西銀座チャンスセンター」と呼ばれることからわかるように、西銀座の駅名の名残は残っています。
なお、日比谷線の全線開業に伴い、輸送力増強のため3000系がそれまでの4連から6連になりました。これに合わせて東武2000系も中間車2両を挿入して6連化、伸び続ける輸送需要に応えています。東急7000系は、当初から6連で日比谷線へ乗り入れています。

ところで。
現在の日比谷線って8連ですよね。
しかし建設当初、駅の施設などを8連対応で建設したのは、八丁堀-中目黒間だけで、茅場町から北千住までは、当初は6連対応の施設しかなかったそうなんです。ちなみに、八丁堀にある折返し線も、当初から8連での対応となっていました。
これには当然訳がありまして、その訳とは建設前の需要予測。予測によると、東武側は沿線人口が少なく、輸送量も少ないからそれほどは伸びないであろう。逆に東横線側の方の伸びが著しいのではないか。
しかし実際には、この予測は見事に「大ハズレ」となってしまいました。東横線からの流入はそれほどでもなく、東武側からの流入が激増していったのは、皆様よくご存知のとおりです。これは、東武沿線で大規模な住宅開発が進み、団地が激増したために人口が爆発的に増加し、それが膨大な輸送需要となったということです。東急側よりも東武側の方が、開発の余地というか「伸びしろ」が大きかったということでしょうね。鉄道以外でも、開業前の需要予測が外れるのは世の常ですが、日比谷線の場合は「大ハズレ」になってしまいました。
ただ、このような「大ハズレ」の結果を揶揄できるのは、それこそ現在の目で当時を見ているからではないでしょうか。確かに今にして思えば「噴飯もの」の予想ですが、当時はこんな予測が出たとしても、無理からぬ事情がありました。それは、(あくまでも管理人自身の想像ですが)田園都市線沿線からの流入がありうるのではないか、と見ていたことです。当時は田園都市線の溝の口-長津田間が建設中でしたから、沿線の住宅開発がなされれば、都心への膨大な通勤通学の輸送需要が発生することが予想されたのではないかと思います。
もっともその後、田園都市線の都心直通ルートも、都市計画11号線(半蔵門線)によってなされることが決まってしまいますが。

このようにして、現在の乗り入れ形態となった日比谷線。
次回は、東急側からの乗り入れについて取り上げます。

-その4に続く-