前回触れたとおり、昭和32(1957)年6月、建設省(当時)から「東京都市計画高速鉄道網」が告示されました。この告示の中に「2号線」というのがあり、その2号線こそが、現在の日比谷線ルートです。
この日比谷線、以下のような問題がありまして…。具体的には、路線の規格の問題、東横線との接続駅をどこにするか、使用車両のスペックなどです。

1 路線の規格の問題
日比谷線の建設に当たっては、当時既に20m級の大型車を通勤車に導入していた東武から、20m級車両を使うことを前提に規格を作れないか、という提案が出されます。
しかし、当時東急には20m級の営業車両は1両もありませんでした。終戦直後に、空襲で焼かれた国鉄のモハ60を、当時学芸大学-都立大学の駅間にあった碑文谷工場でレストアし、東横線で試運転をしたことがありましたが、ホームの縁と車体が接触して大変だったそうです。結局この車両は相鉄へ送られていますが、その後東急線内で運転された20m車は、試運転を行った伊豆急の100系電車や、少数の工事用車両を除けば、昭和44(1969)年に登場した8000系までありませんでした。
こういう状況では、東急が20m車を導入するためには、地上設備の改良に費用がかかってしまいますので、東急は東武の提案を是としませんでした。
そして、この提案は、営団も呑むことはありませんでした。なぜなら、車体長や車体幅が大きくなると、それだけ路線のカーブも緩やかにせざるを得ず、トンネル断面も大きくなりますから、工事費が嵩んでしまうからです。
そのようなわけで、日比谷線は「18m・3扉」で建設されています。
もっとも、後年営団が東西線を建設した際、まだ東陽町(深川車庫)まで路線が達していなかったころは、国鉄線を経由して南千住(千住工場)まで回送して車両の検査を行っていて、検査終了後の試運転で八丁堀-南千住を走行したという史実があります。東西線の車両は20m級ですから、それなら日比谷線でも20m車が走れるのではないかと考えてしまいますが、現実は厳しいようです。恵比寿~六本木~霞ヶ関の間に結構な急カーブがあるようですので、あそこを20m車が通過するのは無理ではないかと思われます。
現在の日比谷線は、東武・東急とも車両の規格が異なっていて、特に東急側ではそのことが、直通列車が廃止になる大きな要因のひとつと思われます。その意味では、現在に禍根を残してしまったことになりますが、実際のところは、建設費の高騰と工事の長期化(※)を恐れた営団が、東急の「18mでいいのでは」という「悪魔の囁き」に屈し、東武の提案を突っぱねたのではなかったかと思います。

※=日比谷線は東京五輪開幕に間に合うように建設されたが、同じように東京五輪開幕前の開業を目指した路線には、東海道新幹線や都営1号線(浅草線)などがある。前者は五輪開幕前に開業したが、後者は全線開業が間に合わなかった。

2 渋谷接続案もあった?
この日比谷線、実は「渋谷接続計画」もあったようです。
渋谷駅で直に日比谷線とつなげば、原則として全ての列車をスルーさせる運転方式となりますので、現在の田園都市線~半蔵門線などの運転形態と同じようなものになったと思われます。渋谷から先は、現在の六本木通りを進み、六本木から現在の日比谷線ルートにつなぐ計画だったのでしょう。
ところが実際には、中目黒接続ということになってしまいます。
これは、東急が渋谷で直に接続して、都心部からの乗客をそのまま流し込まれることを東急が嫌ったからだといわれています。建設当時、日比谷線の需要予測は東急側の方が利用者が多いと目されていて、その表れか八丁堀を境に、以北(~北千住)は6両対応、以南(~中目黒)は8両対応の駅設備になっていました。八丁堀駅には、中目黒方面から入線する折返し線がありますが、あれもそのような需要予測の結果です。
結果は中目黒での接続となりましたが、もし仮に渋谷で接続していたら、東横線には今なお18m車が幅を利かせていたでしょうし、田園都市線との予備車の共通化もできなかったでしょう。それに副都心線の建設計画もどうなっていたか。案外、品川方面へ南下して羽田へ進む当初計画がそのまま生かされていたかもしれません。
ただ実際には、東急東横線のような都心部西側の路線と地下鉄との接続点は、ターミナル駅からずらされる傾向がありました(東西線の中野や千代田線の代々木上原など)。これは、各路線のターミナルの求心力が非常に大きかったため、あえてターミナルを外すことにした結果と思われます。都心部西側でも直に接続している半蔵門線の渋谷や南北線・都営三田線の目黒の例もありますが、これらは例外といっていいでしょう。

3 本当は凄かった3000系
そんな日比谷線の、開業時の主力は3000系。現在も車両は長野電鉄で走っていますし、足回りだけなら富山地方鉄道や大井川鉄道などで今なお使われています。
この3000系、前面ののっぺりした風貌から「マッコウクジラ」の異名をとり、平成6(1994)年のさよなら運転の際、先頭車両に鯨のラッピングを施したこともありますが、実際には当時の営団の幹部は、現在の副都心線用10000系のような、球面に近い前面の車両を作りたかったらしいのです。しかし、当時のステンレスの加工技術では、あのような車体構造を作るのは無理ということで、「マッコウクジラ」型になって世に出ました。現在の10000系のデザインは、そのときの3000系の当初計画案が甦ったものともいえます。
また、3000系は多段制御(バーニア制御)を用い、高い加速度を誇っていて、当時の電車としては卓越した性能を持っていたようです。
さらに、列車の自動運転(ATO)にも成功しました。流石に無人運転は利用者の感情や車内治安の問題で実施されていませんが、それでもこのシステムは、ホームドアシステムを導入した路線で、停止位置の正確化のため運転士をバックアップする機能として生かされています。
しかし、3000系にはほぼ唯一といえる欠点がありました。それは「冷房がない」こと。毎年のように夏期は「走るサウナ」状態になり、それは03系などが導入される昭和63(1988)年まで続きました。

そんな日比谷線は、昭和36(1961)年の南千住~仲御徒町間の開業を皮切りに、徐々に路線を伸ばし、東武伊勢崎線との相互直通運転も開始されました。日比谷線が全線開業したのは、昭和39(1964)年8月29日ですが、この日に東急東横線との相互直通運転が始まっています。
次回は、日比谷線全線開業までの歩みを取り上げます。

-その3に続く-