その1(№2076.)から続く

1930年代、世界的な「流線型ブーム」が巻き起こり、鉄道の世界でもそれまでの武骨な造形一辺倒を脱し、曲線・曲面を生かした優美な造形が見られるようになります。
日本でも、昭和9(1934)年には当時最新鋭の機関車だったC53の1両(43号機)が流線型に改造されて現れ、その後C55の21両(20~40号機)が、当初から流線型車体で製造されました。SL以外でも現在でも「ムーミン」の異名で名高いEF55が登場、電車の世界でも、京阪電気鉄道が本線と京津線の直通用車両60形「びわこ号」に流線型が採用されます。
昭和11(1936)年、当時の「関西急電」に、あたかも「流線型ブーム」の真打ち登場! といわんばかりに、両先頭部を流線型にした増備車が投入されます。その車両は4両固定編成を前提とし、かつ「関西急電」の事実上の専属として投入された車両でした。当時の鉄道省は、戦後の国鉄ほどではないにしても、全国一律組織であるが故の「標準化」が図られていましたから、特定の線区のために設計・製造される車両というのは極めて異例でもあります。
これが、世にいう「流電」ことモハ52系ですが、以下のようなスペックを持っていました。

1 編成は両端Mc車の4連とし、中間T車の1両半室を2等とする(サロハ46とサハ48。いずれも横須賀線用同型車の続番)。
2 両端のMc車は、先頭を魚雷型形状の流線型とする。形式はモハ43と歯数比が異なるため、新形式「モハ52」を起こした。
3 運転台は片隅式とし、反対側はロングシートが最前部まで伸びる「展望席」に。
3 屋根は張り上げ、床下はスカートで覆い、一体感のある編成美をアピール。
4 車体はマルーン1色に塗装するが、窓枠と扉を明るい茶色に塗る。

モハ52系は昭和11(1936)年5月から運用入りし、評判を呼びました。

その後、電化区間が吹田から京都へ伸ばされることになり、京都~吹田間の電化が着工、昭和12(1937)年12月10日に完成します。この完成と軌を一にして、「急電」の運転区間も京都~神戸間に変更され、この時点で京阪神三都を串刺しにする運転系統が完成しました。
もちろん、これによって所要編成数が増加しますから、モハ52系も増備車を迎えることになります。
まず最初に増備されたのは、両端が流線型のモハ52系2編成です。これらは、第1編成が43系と同じ狭窓だったものを、2等1300mm・3等1100mmの大窓に変更しています。さらに塗装も、窓周りをマルーン・窓上下と窓枠をクリームに塗った、当時としては非常に鮮やかなツートンカラーで、大窓採用で軽快さが増したサイドビューと相まって、一段と近代的かつ明朗な車両に仕上がりました(その後すぐ第1編成も同様の塗装に変更)。ちなみに、このときの増備編成は、運転時間が延びることから中間T車に便所を設置、これによって第1編成のサロハ46を横須賀線用の車両と区別する必要が生じたため、サロハ66に改称されています(第2・3編成は当初から便所を備え、サロハ66として落成)。これに対し、サハは全て便所設置改造の対象になったため、形式や番号の変更はありません。

モハ52系は大変な評判を呼び、「関西急電」の名声もさらに高まった…のですが、その舞台裏は結構大変だったようです。
それは、見てくれを良くするために流線型に整えた車体は、現場の運転や整備に携わる者からすれば、使いにくくて仕方がなかったということです。
まず、運転する側からすれば、42系にはあった運転台への扉がなく客室から出入りする形になっていたこと、乗客には好評だった片隅運転台も、混雑時の扉開閉に支障を来たしていたことなど、42系に比べ格段に扱いにくい車両でした。
それよりも大変だったのは、整備に携わる人たちでしょう。モハ52系はスカートが装備されていて、床下がそのスカートで覆われていますが、機器を点検しようと思えばそのスカートを外したり持ち上げたりしなければならず、その取扱いを誤って怪我をする事例もあったそうで、とにかく不評だったとか。「スカート、ひらり」とはいかなかったようです。

そんなわけで、「急電」運用増に伴うさらなる増備編成2本は、モハ52系のような流線型ではなく、モハ43系とモハ52系広窓車の折衷型となり(形式はモハ43の続番)、先頭車は貫通型かつ半流線型とされ、張り上げ屋根・大窓のスマートな車体となりました。モハ52系のようなスカートもなく、塗装も茶色の1色塗りでしたが、張り上げ屋根と広窓で整えられた編成美は実に美しいもので、52系よりもこちらを「関西急電の最高峰」と評する愛好家も多いと聞きます。
こちらの43系は、昭和12(1937)年年末までに登場し、「流電」と従来型43系の折衷型ということで、当時の愛好家や沿線住民には「合の子」(※)という愛称で親しまれました。
ただし、内装は当時の標準的な3等車の域を出るものではなく、そこまで「地域密着」とはいきませんでした。東武との「対日光」のバトルでもそうでしたが、これは「全国一律」を錦の御旗とする国有鉄道のジレンマでもあり、後年までついて回る桎梏でもありました。

※ 現在この言葉は公的に使用すべからざるものとされていますが、半流43系が当時そのような愛称で愛好家や沿線住民から親しまれたという歴史的事実を伝えるため、あえて使用するものです。当ブログにも管理人にも、一切の差別・侮蔑的意図はありません。

こうして「流電」3編成、「半流43系」2編成の合計5編成が出揃った「関西急電」ですが、次第に戦争の影が忍び寄ってきます。
半流43系が登場して1年が経とうかという昭和13(1938)年11月1日、まず普通電車の2等車が廃止されます。「急電」は従前どおりの運転だったものの、その後すぐに52系はマルーンとクリームを正反対にした色に変更されてしまいます。さらに昭和15(1940)年になると、今度は節電対策と称してそれまでの4連を短縮、サハ抜きの3連や、サロハまで抜いた2連まで走るようになります。
昭和16(1941)年には太平洋戦争に突入。その1年後、昭和17(1942)年11月14日、遂に「急電」の運転が休止されてしまいます。同時に2等車も使用を停止され、サロハの仕切壁を撤去して開放しています。このころ、52系編成のスカートは撤去されていましたが、「急電」運転休止に伴って塗り分けを止めた茶色一色の出で立ちとなり、固定編成も崩されて他の車両と混成されていました。
さらに戦局が厳しくなると、通勤客を捌くためそれまで2扉だった43系について、ドアを増設して3扉や4扉に改造したり、改造されないまでも座席を撤去する車両が出現したりしました。モハ43系はドア増設改造の憂き目に遭った者がありましたが、不幸中の幸いなのか、52系や半流43系は座席撤去はされたものの、ドア増設は免れました。

しかし、終戦を目前にした昭和20(1945)年、彼女たちに最大の悲劇が襲います。本土空襲の激化により焼失する車両が増えていったのですが、その中に、52系のモハ52006と半流43系のモハ43038も含まれていました。
悲しいことですが、彼女たちが本来の活躍ができたのは、たった2年あまりという短い期間でした。
この後、「関西急電」は雄々しく復活を遂げ、戦後は新型車両が投入されます。

-その3に続く-