今回から全16回(予定)にわたり、関西新快速の話題を取り上げます。
ちなみに、タイトルは当初決まっておりませんでしたが、

「疾(はや)き者よ」

に決定させていただきました。よろしくお付き合いのほどをお願い申し上げます。
なお、「疾き」の「疾」は当て字であり、誤字ではありませんので、その旨ご了承くださいませ。

「新快速」といえば、JR西日本のアーバンネットワークのイメージリーダーであるだけではなく、同社のフラッグシップといっても過言ではありません。最高速度130km/hの高速、高頻度運転、しかもオール転換クロスシート装備車の使用は、料金不要の列車としては、間違いなく我が国の鉄道の最高峰に君臨するものです。

このような「新快速」が走り始めたのは、今から42年前の昭和45(1970)年ですが、パターンダイヤの中に組み込まれ、本格的な運転を開始したのは昭和47(1972)年の3月です。今年平成24(2012)年は、新快速が本格的な運転を開始してちょうど40年の節目に当たりますので、連載のテーマに選びました。
ただし、皆様よくご存知のように、新快速のような速達サービスは42年前に突然始まったわけではなく、それ以前に「源流」のようなものがありました。
前置きが長くなりましたが、まずはその「源流」を辿っていきましょう。

昭和5(1930)年。
当時の関西私鉄は、まさしく「我が世の春」。
阪和電鉄が「韋駄天」超特急で天王寺-東和歌山を45分で結べば、新京阪(現阪急京都線)では、名車「P-6」ことデイ100が京阪間で高速運転を行い、国鉄の超特急「燕」としのぎを削り、「燕」を追い抜いた伝説を作ったりもしています。さらに凄かったのは参宮急行(現近鉄大阪線)。20mの堂々たる体躯に当時としては大出力の主電動機を搭載したデ2200により、大阪-伊勢間約130kmの超長距離運転を開始しました。しかも、デ2200が凄かったのは、当時の国鉄2等車並みのゆったりした座席を備えていたことです。
京阪や阪神は、路面電車を出自としていたため路線条件は悪かったものの、それでも当時としてはハイグレードな車両を投入して、乗客獲得に躍起になっていました。
では国鉄(当時は鉄道省)はどうだったかといえば、現在の大阪環状線の西半分はつながっておらず(西九条-新今宮間が未開業だった)、しかもその部分も含めて電化されておらず、SLに牽引された列車が運転されていたという状況でした。
これは、当時の国鉄はまさに「国有鉄道」であり、東海道・山陽線は東京から京阪神を経由して下関へ、下関からさらに大陸へ通じていた大動脈であったことによるものです。当時の国鉄はそうした長距離都市間輸送や貨物輸送、さらには大陸を介した国際輸送を担っており、京阪神での都市圏輸送までは手が回りきらず、私鉄任せにしていたという面があります。
そのような中でも、昭和初期、関西地区の電化が計画されました。しかし、昭和恐慌により一時中断され、具体的に進展したのは1930年代に入ってからでした。昭和7(1932)年12月には片町線、翌年2月には城東線の電化が完成します。
そして本命の東海道・山陽線は、まず吹田~須磨間の電化が昭和9(1934)年7月20日に完成しています。
当時は国有鉄道の電化について、軍部が国防上の理由から否定的なスタンスを取っており、電化が完成していた区間は東京近郊などのごく僅かの区間でした。それが、阪神地区の電化着手となったのは、当時日本の産業を支えていた石炭の配分の問題でした。当時の列車は一部を除いてSL牽引が当たり前ですが、そのSLの燃料は石炭。その石炭は、工業や軍需産業にとっても欠くべからざる資源。電気であれば火力以外でも作ることができることから、水力発電で鉄道を動かす電気を賄い、浮いた石炭を他の工業に回そうという考慮があったといわれています。当時は鉄道も国民の生活も、電力消費量などたかが知れていました。現在のように、原子力発電所で大量かつ安価に電力が作り出せるわけではありませんし、消費量もそれほどではありませんでした。それでも、このようなエピソードは、エネルギー政策が国家運営の根幹であること、国が運営していた国有鉄道についても、そういった国策と無関係ではいられないことがよく分かります(※1)。

さて、電化となれば当然電車が投入されることになりますが、東海道・山陽線には、車体長20m・2扉セミクロスシートの堂々たる体躯、それでいて均整のとれたプロポーションを誇った「42系」(※2)が投入されました。
これは、横須賀線に投入されていた32系をさらに洗練させた車両で、前年登場したモハ40系が車体長をそれまでの17mから20mにストレッチしたのを受け、電動車・付随車とも20mとして製造されました(32系は電動車だけが17mだった)。32系ともうひとつ異なるのは、32系がドアを車端部に寄せ、東武6050系のような座席配置だったものを、ドアを窓1枚分だけ車両中央に寄せ、ロングシート部分を拡大したことです。さらに、当時電車列車で車両間を幌でつないでいたのは32系だけだったのですが、先発の40系ともども、幌を用いて車両間の行き来を可能にしました。これは客車列車と同じような取り扱いをするのが目的でした。
現在では信じられませんが、当時の電車列車は数両を連結していても乗客が車両間を自由に行き来することはできませんでした。確かに車端部には扉があったものの、幌はなく、あくまで車掌が業務のために使用するという目的でしかありません。現在のように車両間で行き来ができるようになったのは、昭和26(1951)年の「桜木町事故」があってからです。
42系の車種は、両運転台の電動車がモハ42、片運転台電動車がモハ43、制御車がクハ58、制御車のうち2・3等合造車がクロハ59、運転台のない2・3等合造付随車がサロハ46、郵便荷物合造車がモハユニ44と合計6車種となりました。このうち、モハユニ44は横須賀線用として東京に送られたので、実際に関西向けに製造されたのは5車種となります。
2・3等合造車が造られたのは、このとき投入される電車によって、当時の客車列車の一部が置き換えられることになっており、優等車の需要に応える必要があったからですが、運転台ありとなしの車を2種造ったのは驚きです。これは短編成の場合でも2等車を組み込めるようにとの配慮だそうで、実際にその後程なくしてサロハはクロハに改造されてしまったそうですが(@masakiotshuka様ありがとうございます)、それならサロハは要らなかったのでは…と思いますが。
ただ、車両の内装は当時の標準的な3等車のレベルでした。特に3等車はクロスシートといっても背ずりにモケットを張っただけのもので、並行私鉄のクロスシートには一歩譲るものでした。それでも恵まれた線路条件を十二分に生かした高速運転は、並行私鉄にはかなりの脅威となりました。

ともあれ、この日から大阪-神戸間を「急行」(途中三ノ宮のみに停車-※3)及び吹田-須磨間の普通列車として、42系電車が走り始めました。「急行」は日中30分ヘッド、普通列車は同15分ヘッドとされ、「急行」は4連、普通列車は2連(ラッシュ時4連)とされました。現在の新快速は12連、各駅停車でも7連という現在からは想像もできませんが、当時はその程度の輸送力で足りていたということです。
この日をもって、関西の鉄道史に燦然と輝く「関西急電」が産声を上げました。

昭和9年9月20日、電化区間は須磨から明石まで延び、普通電車は吹田-明石間となりました。
阪神間の電車運転が軌道に乗った、昭和11(1936)年。
国鉄は、この区間に特化した車両として、歴史に残る電車を登場させました。

その2(№2085.)に続く

※1 原発の是非その他、現在のエネルギー政策の是非及びそのあり方に関しては、コメントをご遠慮ください(管理人はこの問題をここで議論する気はありません)。
※2 当時の鉄道省には「系列」の概念はない。32系とか42系などは、鉄道趣味界で便宜上呼び習わしている呼称。
※3 当時の阪神間(後に京阪神間)の「急行電車」は料金を徴収しなかったが、このように呼ばれていた。

当記事は01/24付の投稿とします。