その4(№2047.)から続く


昭和61(1986)年3月9日。

この日は、東急9000系が営業運転を開始した記念すべき日です。

とはいえ、やはりそこはVVVF車。それまでの直流モーター車には見られない特徴が多々ありますので、それなりの走り込みがどうしても必要でした。


まず、同年2月18日に長津田検車区に8両のうち6両が到着し、その6両を使って試運転が行われました。

具体的には、終電後の田園都市線間において、試運転が行われています。VVVF装置ばかりでなく、回生ブレーキの実効性を確かめるため、反対側に8500系の試運転列車を運転させ、回生の効果を確認しています。回生ブレーキはブレーキ作動時にモーターを発電機として作動させ、それによって生じた電力を架線に戻すというものですが、これは近くに戻した電力を消費してくれる別の電車がないと意味がありません(回生の失効)。そこで、反対側を走る8500系列車との間では連絡を取り合い、9000系の試運転列車がブレーキをかけた際に8500系列車が力行(自動車でいうとアクセルを踏み込むことにあたる)をして、効果が確認されています。

そして、3月1日に残りの2両が到着、ここで9000系は所定の8連を組成できたことになります。

8連化された後は、本来の配属先である東横線での試運転。同線での公式試運転は3月7日、さらにその翌日には、早くも「鉄道友の会」の見学会が開催され、「鉄道友の会」に所属する愛好家のもとに、初めて9000系がお目見えしました。


そして翌日の3月9日。

9000系は、6時59分に元住吉検車区を出庫し、遂に営業運転に入ります。東急では運行番号によって列車番号を付けますが(※)、栄えある初運用は56運行でした。当時、東横線ではまだ特急がなく、急行と各駅停車で運用が分けられており、急行の運行番号は50~60となっていました。ただし50と57~60はラッシュ時だけの運転でしたので、56運行は、終日の急行運用となっていました。


※ 東急の列車番号の法則…6桁の数字で表し、十万、万及び千の位が運行番号(ただし十万の位は、大井町線とこどもの国線が1、目黒線は東急車2、メトロ車3、都営車4、埼玉高速車5)、百と十の位が始発駅発車の時間帯、一の位が奇数は上り、偶数は下り。


実は、この年の3月9日は日曜日。当時はまだ週休二日制が定着しておらず、土曜日が完全な休日になっていませんでした。また、当時は新型車両が日曜日にデビューするというのは希なことであり、この点も様々な話題を呼びました。一説によれば、東急は9000系デビューにそれだけ社運をかけており、そのため愛好家や沿線住民が集まりやすい日曜日に新車デビューをぶつけてきたのではないかといわれています。しかし、他方では、VVVFという新技術の採用でしたから、何か初期故障その他の不具合があっては、平日の場合だとラッシュ輸送が大混乱に陥ることを危惧したという見方もあり、四半世紀経過した今では、どちらが正しかったのかと思います。管理人個人の考えとしては、後者を考慮した結果ではないかと思っていますが。

ともあれ、東横線の急行運用で華々しいデビューを飾った9000系でしたが、やはり万全の調子ではなかったようで、あるいは大事をとってのことなのか、朝9時には元住吉で車両交換が行われ、当時東横線所属だった8603Fと交代し、9000系はとっとと検車区に引き上げてしまいました。この日は、9000系の初運用ということで、沿線には多数の愛好家や沿線住民が出ていましたが、もちろん9000系の初乗りを楽しむ乗客も多くいました。ところが、当の9000系がとっとと車庫に引き上げてしまったものですから、行き場を失った乗客は元住吉駅のホームで「ポカーン」…。ご用のある人が8603Fに乗り込んだ以外は、多数の愛好家がホームに取り残されてしまいました。


こうしてデビューを飾った9000系ですが、しばらくは9001Fの1編成だけで、第2編成が登場するのは2年後の昭和63(1988)年となっています(現車はその前年に登場していたらしいが、管理人は前年のうちに目撃していなかった)。なぜ第1編成から第2編成の落成まで2年もの間が空いてしまったのかは分かりませんが、技術陣・検修陣の懸命な「お守り」があったようです。9000系の第1編成は、デビュー後もさしたる初期故障なく過ごしていますが、これには当時の検修陣の血の滲むような努力の賜物といえるでしょう。

余談ですが、通勤電車と新幹線の違いこそありますが、9000系の11年後にデビューした新幹線500系は、しばらく1編成だけで大事に運用されていましたが、これも初期故障を未然に防ぐべく、走り込みや検修を優先させた結果といわれています。逆に製造を急いだキハ81系は初期故障に悩まされましたから、500系はそうした教訓を生かしているのでしょう。もちろん、9000系も然り。

さらに余談をいえば、昭和62(1987)年に東横線に新造車が配属されましたが、これは9000系ではなく、8500系の最終編成(8642F)。この時期になぜこんな編成が投入されたかですが、当時は8090系の6M2T化が進められており、その編成替えに対応するためには車両数が足りなかったことや、翌年に営団(当時)半蔵門線の半蔵門-三越前の延伸開業が迫っており、田園都市線に車両を追加投入する必要があったことなどの理由があったものと思われます。

結局、8642Fは後にVVVF制御の中間車を組み込み、田園都市線へ転出しています。


そしてその後、9000系は昭和63(1988)年から翌年にかけて、第2~第7編成が投入されました。これらは、第2~第6編成が8連で東横線に投入されていますが、第7編成だけは、5連で大井町線に投入されています。

現在、9000系は大井町線への転属が進められていますが、東横線から転属した編成は、両先頭車にスカートが装着されているのに対し、新造時から大井町線に所属していた第7編成は、現在もなおスカートを装着しておらず、他の編成と比べた際の特徴となっています。


さらに平成4(1992)年までに第8~第15編成が出そろい、9000系は全部で117両の勢力を築くに至りました。


平成16(2004)年に東横線の横浜-桜木町間が廃止され、みなとみらい線と相互直通運転する現在の運転形態に改められても、9000系は1編成も欠けることなく活躍を続けました。この間8000系の勢力が縮小するに伴い、みなとみらい線開業直後には東横線における最大派閥の地位に上り詰めましたが、それも僅かの間で、たったの2年後に、今度は5050系に最大派閥の座を明け渡しています。

現在は副都心線との相互直通運転の準備が進められていて、9000系は乗り入れ改造対象から外され、中間車を抜いて大井町線に順次転属しています。その過程で、抜かれた中間車が廃車になってしまいました。


「最後の桜木町世代」も、東横線から去る時が刻々と近づいていますが、大井町線での末永い活躍を祈念したいものです。


その6に続く


※ 当記事は、当面01/02付の投稿とします。

※ (平成24年1月11日)記事を平成23年11月1日付の投稿としました。