その10(№1764.)から続く


「リゾート21」に「スーパービュー踊り子」。

この両雄が揃った時点で、伊豆急の観光輸送は盤石に見えました。

両者が揃ったのはまさにバブル絶頂期。事実、平成3(1991)年には伊豆急の年間輸送量は開業以来最高を記録します。


このころ、箱根や日光・鬼怒川など、東京から100km前後の距離にある観光地には、自家用車で訪れる観光客が多くなり、そのことがこれら観光地へ向かう特急列車の乗客減をもたらします。しかし、これらの観光地とは異なり、伊豆急が走る伊豆半島東岸は道路事情に恵まれなかったため、海水浴シーズンその他観光シーズンには大渋滞をもたらします。そのため、他の観光地に比べて鉄道利用者の自家用車への転移が進まず、そのことも伊豆急の利用者数を高い水準で維持させている要因ともなりました。

また、バブルという空前の好景気の中、「リゾート21」の特別車両・ロイヤルボックスや「スーパービュー踊り子」のグリーン車などが活況を呈していました。

しかし、この年を境に、伊豆への観光客の入れ込みが減少、それと同時に伊豆急の利用者数も減少の一途をたどるようになります。


その理由は、それまで続いてきた空前の好景気が終了し、長い不況に突入したという経済状況の変化がひとつ。もうひとつは、社会の嗜好の大きな変化がありました。


まず経済状況の変化ですが、これは「バブルの崩壊」といわれるもの。これによって観光客、特に温泉旅館の宿泊客が激減し、多くの温泉旅館が経営難に晒されます。今でも熱海や鬼怒川の温泉街を歩くと、更地になっている土地や、打ち捨てられた大きなホテルの跡地などが目につきますが、これもやはりバブル崩壊により宿泊客が激減したからです。

もっとも、熱海や鬼怒川の場合は、それまでの上得意だった大口の団体客がごっそりなくなったためで、伊豆とは異なりますが、それでも観光客の激減は事実で、伊豆の温泉旅館はこのころから、集客のためにあれやこれやの知恵を絞り始めます。

しかし、温泉への宿泊客が減少したとしても、それまで膨大な数を数えた海水浴客があれば、伊豆急の経営は安泰ともいえたのですが、海水浴客もこのころから激減し始めました。その理由は、バブルの崩壊による消費支出の減少ももちろんありますが、海水浴の場合は東京や横浜などからの日帰りも可能であり、それだけが大きな要因ではありませんでした。


実は、海水浴客が激減した一番の要因は、現在まで続く「美白ブーム」の到来でした。

かつては、「日焼けした子供」といえば「健康優良児」を表すアイコンとなっており、管理人が小学生だった頃は、夏休みの終了後どれだけ日焼けしているかが、子供たちのステータスになっていたものです。

成人男性でも、いかに筋骨隆々であっても、肌が白いと逞しさに欠ける印象があるように受け取られていましたし、成人女性でも化粧品会社や航空会社のキャンペーンガールなどは、褐色に日焼けした肌を晒した写真で健康美をアピールしていたものです。この手のキャンペーンガールで思い出すのは、斎藤慶子さんや夏目雅子さん。管理人も年をとったということなんでしょうか…。


…余談はさておき(滝汗)。


しかし、このころだと思いますが、「過剰な日焼け(=紫外線の浴び過ぎ)が皮膚ガンの原因になる」ということがメディアなどで喧伝されるようになりました。そのせいもあるのか、世間の風向きが180度変わり、それまでは「いかに焼くか」だったのが「いかに焼かないか」が競われるようになります。それまで、化粧品会社では日焼けオイルのCMを流し、日焼けした女性の健康美をアピールしていたものが、日焼け止めのCMを流すようになり、それまでの褐色の肌ではなく、焼かない白い肌が女性の美の象徴と受け取られるようになってしまいました。

現在は皮膚科医が「過度な日焼けの抑制はビタミンDの欠乏をもたらすばかりか、骨粗しょう症の原因にもなりうる」旨の研究結果を発表しています。実際に人間は太陽光線を浴びることで体内でビタミンDを合成するそうなので、日焼けが健康美の象徴として持て囃されたのは、それなりの根拠があってのことです。したがって、あまり日焼けに神経質になり過ぎると身体にはよろしくないのですが、それでも女性の美の追求に対する執念が強いのか、「美白志向」はとどまるところを知らないように見えます。


そのような「美白ブーム」の割を食ったのが海水浴でした。海水浴は砂浜で肌を晒しますから、当然日焼けを避けることはできません。そこで日焼け止めの出番となるわけですが、「紫外線の浴び過ぎが皮膚ガンの原因になる」ことが喧伝されては、いくら日焼け止めを塗りたくったとしても、そうまでして東京や横浜からわざわざ出かけていこうとは思わないでしょう。それでなくとも、伊豆急が開業したころとは時代も変化し、娯楽の選択肢も多様化していますので、何も海水浴だけが唯一最高の夏のレジャーではなくなってしまっていました。

このような次第で、海水浴客も減少し、それによって伊豆を訪れる海水浴客も減少します。そしてこのことは、当然伊豆急の乗客の減少も意味しますから、平成3(1991)年をピークに輸送量が減少してしまったわけです。


ところで、このころの伊豆急の車両は、「リゾート21」の他は、開業時の昭和36(1961)年から47(1972)年にかけて投入した100系が、依然として主力でした。平成4(1992)年当時、100系の車齢は既に初期車で30年を超え、後期車も20年に達してしまったため、老朽化の問題が持ち上がりました。しかも、100系の致命的な欠点は、元グリーン車以外冷房がなかったことです。そのため、ことこの年代に至っては、冷房のないことは現代の交通機関にふさわしいサービス水準を満たしているものとはいえなくなってしまいます。

そこで、100系にも冷房改造が施されるのですが、改造コストを低く抑えるため、何と家庭用冷房機を搭載し、しかもクロスシート部分だけを区切ってデッキ付き構造のような形態にし、冷房効率を高めていました。

しかし、そのような改造は、所詮は一時的なもの。そこで100系の置き換えが検討されるのですが、完全な新車を投入するだけの体力は、もはや当時の伊豆急には残っていませんでした。

そこで、100系の置き換えは他社からの譲受車両となるわけですが、次回はそのあたりのお話を。


その12(№1778.)に続く